『太平記』巻十六「正成兵庫に下向の事」の一節、いわゆる「桜井の別れ」は、湊川の戦いに死を覚悟して赴く楠木正成が、桜井の宿で嫡子正行(十一歳)を故郷河内へ帰し、最後の庭訓(教え)を遺す名場面です。定期テストでは、獅子の子の比喩と「いはんや〜をや」の抑揚表現、意志・推量・当然の助動詞(む・べし)、禁止を表す「あるべからず」、そして「命を養由が矢さきに懸け、義を紀信が忠に比すべし」に用いられた中国故事(弓の名手・養由基、身代わりの忠臣・紀信)が繰り返し問われます。生きて朝廷への忠義を全うすることこそ最大の孝行だとする、忠と孝を一致させた主題も頻出です。
本文(傍線①〜⑮)
正成、兵庫に下りけるが、櫻井の宿より、①嫡子正行を河内へ②帰し遣はさんとて、泣く泣く③庭訓を残しけるは、「獅子は子を産みて三日を経る時、数千丈の石壁より、これを投ぐ。その子、獅子の④機分あれば、教へざるに中より跳ね返りて、⑤死する事を得ずといへり。⑥いはんや汝、すでに十歳にあまりぬ。一言耳に留まらば、我が教誡(けうかい)に⑦違ふ事なかれ。
この一戦、天下の⑧安否と思ふ間、汝を、これより帰しつかはすなり。正成すでに討ち死にすと⑨聞かば、天下は必ず⑩将軍の代になりぬと心得べし。しかりといへども、一旦の身命を助からんがために、多年の忠烈を失ひて、降人に出づる事、⑪あるべからず。
⑫一族若党の一人も生き残りたらんほどは、金剛山の辺りに引き籠りて、敵寄せ来たらば、⑬命を養由が矢さきに懸け、⑭義を紀信が忠に比すべし。これを汝が第一の孝行と思ふべし。」
正成、涙を押さへて、泣く泣く申し含めて、おのおの東西へ⑮別れにけり。
語注 正成=楠木正成(くすのきまさしげ)。後醍醐天皇に仕えた武将。 兵庫=今の神戸市のあたり。このあと湊川(みなとがわ)の戦いが行われる地。 櫻井の宿=西国街道の宿場。今の大阪府島本町のあたり。 嫡子=家を継ぐべき正式な跡取りの子。 正行=楠木正行(まさつら)。正成の長男。 河内=今の大阪府東部。楠木氏の本拠地。 庭訓=家庭での教え。親が子に残す教訓。 数千丈=きわめて高いこと。「丈」は長さの単位。 機分=生まれつきの素質・資質。 中=空中。落ちていく途中。 いはんや=まして。 教誡=いましめ教えること。教え。 違ふ=そむく。従わない。 安否=無事かどうか。ここでは、世の中が治まるか乱れるか。 将軍=足利尊氏(あしかがたかうじ)。 身命=いのち。 忠烈=激しく強い忠義の心。 降人=降参した人。 若党=主君に仕える若い家来。 金剛山=河内と大和の境にある山。楠木氏の根拠地。 養由=中国・春秋時代の楚(そ)の弓の名手、養由基(ようゆうき)。 紀信=漢の高祖(劉邦)の忠臣。 ※この場面=『太平記』巻十六「正成兵庫に下向の事」の一節。足利尊氏の大軍を迎え撃つため兵庫へ向かう正成が、桜井の宿で嫡子正行を河内へ帰し、最後の教えを残す場面。正成はこののち湊川の戦いで討ち死にする。
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設問
A 語句の意味と読み
- ①「嫡子」の読みと意味を書け。
- ③「庭訓」の読みと意味を書け。
- ④「機分」の意味を書け。
- ⑥「いはんや汝、すでに十歳にあまりぬ」の「いはんや」の意味を書け。
- ⑦「違ふ事なかれ」の「違ふ」の読みと意味を書け。
- ⑧「安否」の読みと、ここでの意味を書け。
- ⑫「一族若党の一人も生き残りたらんほどは」の「若党」の意味を書け。
B 文法
- ②「帰し遣はさんとて」の「ん(む)」の文法的意味と活用形を書け。
- ⑤「死する事を得ずといへり」の「り」の文法的意味と活用形を書け。
- ⑥「いはんや汝、すでに十歳にあまりぬ」の「ぬ」の文法的意味と活用形を書け。また、そう判断できる決め手も書け。
- ⑦「違ふ事なかれ」の「なかれ」を文法的に説明せよ。また、この言い方が表す意味も書け。
- ⑨「聞かば」の「ば」の意味・用法を書け。
- ⑪「あるべからず」を、助動詞に注意して文法的に説明せよ。
- ⑮「別れにけり」の「に」と「けり」を、それぞれ文法的に説明せよ。
C 主語・指す内容
- ⑤「死する事を得ずといへり」とあるが、死なずにすむのは何か。主語を明らかにして、どうなることかもあわせて書け。
- ⑨「聞かば」とあるが、聞くのは誰か。
- ⑩「将軍」とは誰を指すか。
- 「これを汝が第一の孝行と思ふべし」の「これ」は、何を指すか。⑫〜⑭をふまえて書け。
D 口語訳
- ④・⑤をふくむ「その子、獅子の機分あれば、教へざるに中より跳ね返りて、死する事を得ずといへり」を口語訳せよ。
- ⑥「いはんや汝、すでに十歳にあまりぬ」を口語訳せよ。
- ⑪をふくむ「しかりといへども、一旦の身命を助からんがために、多年の忠烈を失ひて、降人に出づる事、あるべからず」を口語訳せよ。
- ⑫「一族若党の一人も生き残りたらんほどは」をふくむ「一族若党の一人も生き残りたらんほどは、金剛山の辺りに引き籠りて」を口語訳せよ。
E 内容・記述
- ⑥「いはんや汝、すでに十歳にあまりぬ」の前に、獅子が子を石壁から投げ落とす話を置いたのはなぜか。「いはんや」の働きにふれて書け。
- ⑧「安否」の語を使って、正成が正行をここから河内へ帰らせた理由を書け。
- ⑭「義を紀信が忠に比すべし」のあとに「これを汝が第一の孝行と思ふべし」とある。正成の庭訓の主題を、「忠」と「孝」の語を使って書け。
F 文学史・故事(本文全体をふまえて答える)
- ⑬「命を養由が矢さきに懸け」の「養由」とはどのような人物か。簡単に書け。
- ⑭「義を紀信が忠に比すべし」の「紀信」とはどのような人物か。簡単に書け。
- この文章の出典『太平記』は、どのような作品か。ジャンルと、描いている時代を書け。
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解答と解説
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A 語句の意味と読み
問1 読み=ちゃくし/意味=家を継ぐべき正式な跡取りの子。ここでは正成の長男・正行を指す。
└ 「嫡」は正妻の子・本すじの意。「庶子」と対になる語
問2 読み=ていきん/意味=家庭での教え。親が子に与える教訓。
└ 「庭」は家庭のこと。ここは正成が正行に残した最後の教え
問3 生まれつきの素質・資質。ここでは獅子としての才能。
└ 本文の「教へざるに中より跳ね返りて(=教えなくても落ちる途中で跳ね返って)」ことができる、そのもとになるもの
問4 まして。まして〜は言うまでもない。
└ ★軽いもの(獅子の子)をあげて、重いもの(人であるおまえ)を強める抑揚の言い方
問5 読み=たがふ(現代仮名遣いでは「たがう」)/意味=そむく。従わない。
└ 現代語の「ちがう」ではなく「教えにそむく」の意
問6 読み=あんぴ/意味=無事かどうか。ここでは、世の中が治まるか乱れるか、天下の存亡ということ。
└ 「この一戦、天下の安否と思ふ」=この一戦に天下の運命がかかっている
問7 主君に仕える若い家来・武士。
└ 「一族(血のつながった者)」と「若党(家来)」を並べて、味方が残っているかぎりは、と言っている
B 文法
問8 意志(〜しよう)/終止形。「帰し遣はさんとて」で「帰らせようとして」の意。
└ 「〜んとて」は「〜しようとして」。引用の「と」の上なので終止形
問9 存続(〜ている)の助動詞「り」の終止形。〈完了・存続〉の「り」のうち、ここは存続で「〜と言い伝えている」の意になる。(「り」の接続を、四段動詞の已然形とする教科書と命令形とする教科書があるので、お使いの教科書の説明に合わせること。)
└ 「いへ」は四段動詞「言ふ」の形。「り」はサ変と四段にしかつかない
問10 完了(〜てしまった・もう〜した)/終止形。決め手=直前の「あまり」が連用形だから。打消の「ず」の連体形「ぬ」なら未然形につくので「あまらぬ」となる。
└ ★「ぬ」の識別は接続で決める。連用形+ぬ→完了、未然形+ぬ→打消「ず」の連体形
問11 形容詞「なし」の命令形。「〜事なかれ」の形で「〜するな・〜してはいけない」という禁止を表す。
└ 「〜する事なかれ」はそのまま禁止の決まった言い方として覚えてよい
問12 未然形+「ば」で順接の仮定条件を表す。「もし(討ち死にしたと)聞いたならば」の意。
└ ★未然形+ば=仮定(もし〜たら)、已然形+ば=確定(〜ので・〜と)。「聞か」は未然形
問13 「べから」=当然の助動詞「べし」の未然形、「ず」=打消の助動詞「ず」の終止形。「べし」+「ず」で「〜てはならない」という禁止を表し、ここは「(降参するようなことが)あってはならない」の意。
└ ★ここでの「べからず」は禁止(〜てはならない)。「べからず」は文脈によって「〜できない・〜はずがない」の意にもなるので、前後で決める。⑦の「なかれ」と同じ禁止のなかま
問14 「に」=完了の助動詞「ぬ」の連用形。「けり」=過去の助動詞「けり」の終止形。(ここは詠嘆をこめて読む説明の教科書もあるので、お使いの教科書の説明に合わせること。)「別れてしまった」と、二度と会えない別れを語り収めている。
└ ★「に」の識別=下に「けり・き・たり」など助動詞が続く「に」は完了「ぬ」の連用形。断定「なり」の連用形ではない
C 主語・指す内容
問15 主語=獅子の子。石壁から投げ落とされた獅子の子が、生まれつき素質を備えているので、教えられなくても落ちる途中で自分から跳ね返り、死なずにすむということ。
└ 「その子」=獅子が産んで三日目に投げ落とした子
問16 正行。「正成すでに討ち死にすと聞かば」は、正成が我が子正行に向かって「私が討ち死にしたと(おまえが)聞いたならば」と言っている言葉である。
└ ★正成が正行に言い聞かせている場面。「汝」と呼びかけられている側が、聞く人
問17 足利尊氏。
└ ★正成が兵庫へ迎え撃ちに行く相手。ここを後醍醐天皇と取りちがえない
問18 一族や家来が生き残っているかぎり金剛山にこもって戦い、養由基の矢の前に身をさらすように命を惜しまず、紀信の忠節になぞらえて忠義を貫きとおすこと。
└ 直前の⑫〜⑭の言いつけが、そのまま答えになる
D 口語訳
問19 その子には獅子としての素質が備わっているので、教えなくても落ちる途中で身をひるがえして跳ね返り、死なずにすむという。
└ 「中」=空中・落ちていく途中。「得ず」=〜できない。★「あれば」は已然形+ば=「〜ので」(そういうものはいつでも、の意)。仮定の「あらば」ではない。⑨「聞かば」(未然形+ば=もし〜たら)と比べる
問20 まして、おまえはもう十歳を過ぎている。
└ 「いはんや」=まして。「あまりぬ」=過ぎてしまった(「ぬ」は完了)
問21 そうであっても、ほんの一時の命を助かりたいために、長年の忠義を捨てて、降参して敵に身を投じるようなことが、あってはならない。
└ 「しかりといへども」=そうであっても。「一旦の」=ほんの一時の
問22 一族や若い家来が一人でも生き残っているような間は、金剛山のあたりに立てこもって。
└ 「たらん」=生き残っているような。「引き籠る」=立てこもる
E 内容・記述
問23 獅子の子でさえ、生まれつき素質が備わっているので、教えられなくても自分の力で死をまぬかれる。それを先にあげたうえで「いはんや(まして)」と続けることで、十歳を過ぎた正行なら自分の力で生きぬき、父の教えを守れるはずだと強く言うため。
└ ★軽いものを先にあげて重いものを強める言い方を抑揚(よくよう)という
問24 この一戦に天下の安否(世の中が治まるか乱れるか)がかかっていると考え、自分は死を覚悟していたので、跡取りである正行を生き残らせて、自分の教え(忠義)を継がせようとしたから。
└ 「天下の安否と思ふ間、汝を、これより帰しつかはすなり」が直接の手がかり
問25 父のそばに残って一緒に死ぬことが孝行なのではなく、生きのびて朝廷への忠義を最後まで貫きとおすことこそが第一の孝行だという、忠と孝を一つに重ねた武士の生き方が主題である。
└ ★「親孝行」を家族の情でとらえると外す。「忠=孝」と言い切っているところが山
F 文学史・故事(本文全体をふまえて答える)
問26 中国・春秋時代の楚の弓の名手、養由基。百歩離れた柳の葉を射抜いたと伝えられ、「百発百中」の故事で知られる。ここは、その名手の矢の前に身をさらすように、命を惜しまず戦えという意味で引かれている。
└ ★「養由のように弓が上手になれ」ではない。命を惜しむなという意味
問27 漢の高祖(劉邦)の忠臣。項羽の軍に囲まれたとき、主君の身代わりとなって敵中に出て高祖を逃がし、自分は命を落とした。ここは、その紀信の忠義になぞらえて忠義を尽くせという意味で引かれている。
└ ★養由=命を惜しまぬ勇、紀信=身代わりの忠。二つが対句になっている
問28 軍記物語。後醍醐天皇の倒幕から南北朝の動乱までを描いた全四十巻の作品で、南北朝時代(十四世紀後半)に成立したとされる。作者は未詳。
└ 『平家物語』とならぶ軍記物語の代表作。この場面は巻十六、湊川の戦いの直前にあたる
【テスト直前チェック】この三つ
❶禁止の言い方が二つ出ます。⑦「違ふ事なかれ」(〜するな)と⑪「あるべからず」(〜てはならない)。どちらも「〜してはいけない」。正成の庭訓はこの禁止と命令の連続でできています。
❷養由=弓の名手、紀信=身代わりの忠臣。⑬⑭の中国故事は「誰の、どんな行いか」までセットで答えられるように。⑬と⑭は「命を〜懸け」「義を〜比すべし」と対句(命⇔義、養由⇔紀信)になっているので、二つセットで覚えておきましょう。
❸主題は「忠」と「孝」が一つになること。生きて忠義を貫くことこそ第一の孝行、が答えの軸。父のそばで死ぬのが孝行だと書くと外します。
現代語訳(全文)
正成は、兵庫へ下って行ったが、(その途中の)桜井の宿から、嫡子の正行を(故郷の)河内へ帰らせようとして、泣きながら教え(庭訓)を残した。その言葉は、「獅子は子を産んで三日たつと、数千丈もある高い石壁の上から、その子を投げ落とす。その子には獅子としての素質が備わっているので、教えなくても落ちる途中で身をひるがえして跳ね返り、死なずにすむという。まして、おまえはもう十歳を過ぎている。(私の)この一言が耳にとどまるならば、私のいましめの教えに背いてはならない。
この一戦に天下が無事であるかどうかがかかっていると思うので、おまえを、ここから帰らせるのだ。この正成がもう討ち死にしたと聞いたなら、天下は必ず将軍(足利尊氏)の世になってしまうと心得よ。そうであっても、ほんの一時の命を助かりたいために、長年の忠義を捨てて、降参して敵に身を投じるようなことが、あってはならない。
一族や若い家来が一人でも生き残っているような間は、金剛山のあたりに立てこもって、敵が攻め寄せて来たなら、(弓の名手)養由基の矢の前に身をさらすように命を惜しまず戦い、その忠義を(漢の忠臣)紀信の忠節になぞらえよ。これをおまえの第一の親孝行だと思え。」
正成は、涙を押さえて、泣きながら(正行に)よく言い聞かせて、父と子はそれぞれ東と西へ別れたのだった。
※この問題は誰でも古典塾のオリジナルです。本文は古典(著作権の対象外)から正確に引用しています。
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