1. はじめに
『荘子(そうじ)』の「応帝王(おうていおう)」篇にある、とても短いけれど有名な寓話(ぐうわ=たとえ話)です。南海の帝・儵(しゅく)と北海の帝・忽(こつ)が、いつも親切にもてなしてくれる中央の帝・渾沌(こんとん)に恩返しをしようとします。「人には目・耳・鼻・口の七つの穴があるのに、渾沌にはない。穴をあけてあげよう」と、一日に一つずつ穴をあけたところ、七日目に渾沌は死んでしまった――という話です。
良かれと思ってした「人の手(人為)」が、かえって相手の本来のあり方をこわしてしまう。荘子が大切にした『無為自然(むいしぜん)=あるがままに任せること』の思想が、たった数行に凝縮されています。短い文章ながら、登場人物の名前にも意味が込められていて、読みどころの多い教材です。
2. 白文・書き下し文
【白文】
南海之帝為儵、北海之帝為忽、中央之帝為渾沌。儵与忽、時相与遇於渾沌之地。渾沌待之甚善。儵与忽謀報渾沌之徳、曰、「人皆有七竅、以視聴食息。此独無有。嘗試鑿之。」日鑿一竅、七日而渾沌死。
【書き下し文】
南海の帝を儵(しゅく)と為し、北海の帝を忽(こつ)と為し、中央の帝を渾沌(こんとん)と為す。儵と忽と、時に相与(あひとも)に渾沌の地に遇(あ)ふ。渾沌之を待(たい)すること甚(はなは)だ善(よ)し。儵と忽と渾沌の徳に報(むく)いんことを謀(はか)りて曰(い)はく、「人皆七竅(しちけう)有りて、以(もっ)て視聴食息(しちょうしょくそく)す。此(こ)れ独(ひと)り有ること無し。嘗試(こころ)みに之を鑿(うが)たん。」と。日に一竅を鑿ち、七日にして渾沌死す。
3. 現代語訳(やさしい言葉で)
【現代語訳】
南海の帝を儵といい、北海の帝を忽といい、中央の帝を渾沌という。儵と忽とは、あるとき渾沌の治める土地でいっしょになった。渾沌は二人をたいそう手厚くもてなした。儵と忽は、渾沌のこの恩義に報いようと相談して言った。「人にはみな七つの穴があって、それで見たり聞いたり食べたり息をしたりしている。ところがこの渾沌だけにはそれがない。ためしに穴をあけてみよう。」そして一日に一つずつ穴をあけていったところ、七日目に渾沌は死んでしまった。
4. 重要語句
- 帝(てい)…天帝。ここでは各方角を治める神・支配者のこと。
- 儵(しゅく)…南海の帝の名。「儵」「忽」はともに「たちまち・すばやい」の意で、せわしなく動き回る人為のはたらきを象徴する。
- 忽(こつ)…北海の帝の名。儵と同じく「たちまち」の意。
- 渾沌(こんとん)…中央の帝の名。区別のない、まじり合った混沌(カオス)の状態。手を加えられていないあるがままの自然を象徴する。
- 相与に(あひともに)…いっしょに。連れ立って。
- 待す(たいす)…もてなす。応対する。
- 甚だ(はなはだ)…たいへん。非常に。
- 徳(とく)…ここでは「恩・めぐみ」の意。手厚いもてなしという恩義。
- 謀る(はかる)…相談する。計画する。
- 七竅(しちけう)…顔にある七つの穴。両目・両耳・両鼻孔・口を指す。「竅」は穴の意。
- 嘗試みに(こころみに)…ためしに。試験的に。
- 鑿つ(うがつ)…穴をあける。掘る。
5. 句法・読解のポイント
- 「以(もっ)て視聴食息す」の「以」…「以」は手段・方法を示す前置詞で「それ(七つの穴)を使って」の意。直前の「七竅有りて」を受けて、その穴によって見聞き・飲食・呼吸ができる、とつなぐ。
- 「嘗試(こころ)みに~ん」(試みの意志)…「嘗試みに之を鑿たん」は「ためしに穴をあけてみよう」。「嘗試みに」は『ためしに』、文末の「ん(む)」は意志を表す助字。提案・申し出を表す言い方として頻出。
- 「報いんことを謀る」の語順…「謀(はか)りて報(むく)いんと曰はく」ではなく、書き下しは『渾沌の徳に報いんことを謀りて曰はく』。『報いること(恩返し)を相談して言った』と、目的の内容+「謀る」の形を正確におさえる。
- 「此独無有」の「独」…「此(こ)れ独(ひと)り有ること無し」=『この渾沌だけには(七つの穴が)ない』。「独」は『~だけ・~に限って』と限定を表す。前の『人皆有』と対比させている点に注意。
- 「日鑿一竅」の「日に」…「日(ひ)に一竅を鑿(うが)ち」=『一日に一つずつ穴をあけ』。「日に」は『毎日・一日ごとに』と反復・配分を表す副詞的用法。
- 「七日而渾沌死」の「而」…「七日にして渾沌死す」。「而」はここでは順接で『そして・~して』の意。穴をあけ続けた結果、七日目に死んだ、という時間の経過と帰結を結ぶ。
- 対句的な人物設定…「南海の帝=儵/北海の帝=忽/中央の帝=渾沌」と方角と名で整然と並ぶ。儵・忽(すばやい人為)と渾沌(あるがままの自然)の対比が、寓意を読み解くカギになる。
6. 主題・あらすじ・背景
あらすじ:南海の帝・儵と北海の帝・忽が、中央の帝・渾沌のもとでいつも手厚いもてなしを受けていた。二人はその恩に報いようと、「人には目・耳・鼻・口の七つの穴があって、見る・聞く・食べる・息をすることができるのに、渾沌にはその穴がない。あけてあげよう」と相談する。そして一日に一つずつ穴をあけていったが、七日目にすべての穴があき終わると、渾沌は死んでしまった。良かれと思った行いが、かえって相手をこわしてしまったのである。
主題:人が「良かれ」と思ってほどこす作為(人為)が、かえって物事の本来のあり方をそこなってしまう、ということ。穴のない渾沌=あるがままの自然の象徴に、人間的な「七つの穴」という秩序・分別を無理に加えた結果、渾沌は死んだ。ここから、手を加えず自然のままに任せる「無為自然」こそが本来の生き方だ、という荘子の思想が示される。
背景:『荘子』は戦国時代の思想家・荘周(そうしゅう)とその後継者たちの言葉を集めた書物で、老子とともに「老荘思想(道家)」を代表する。儒家が「仁・義・礼」など人の作った規範(人為)を重んじたのに対し、荘子は人為を捨てて天地自然のままに生きる「無為自然」を理想とした。この「渾沌」の話は、内篇の最後「応帝王」篇に置かれ、為政者のあるべき姿(人民に余計な手を加えず自然に治める)を説く文脈にある寓話である。儵・忽という「すばやさ=作為」が、混沌=未分化の自然を破壊するという構図に、荘子の自然観がよく表れている。
確認クイズ(3問)
南海の帝・儵と北海の帝・忽は、なぜ渾沌の体に穴をあけようとしたのですか。
渾沌がいつも二人を手厚くもてなしてくれた、その恩に報いようとしたから。人には見る・聞く・食べる・息をするための七つの穴があるのに渾沌にはないので、あけてあげようと考えた。
穴を一日一つずつあけていった結果、渾沌はどうなりましたか。また「日に一竅を鑿ち、七日にして渾沌死す」を訳しなさい。
七日目に渾沌は死んでしまった。訳「一日に一つずつ穴をあけ、七日目に渾沌は死んだ。」
この寓話は、荘子のどのような思想(主題)を表していますか。「渾沌」「人為」「無為自然」の語を使って説明しなさい。
穴のない渾沌は『あるがままの自然』の象徴で、そこに七つの穴という人間的な秩序(人為)を加えたために渾沌は死んだ。よけいな手を加えず自然のままに任せる『無為自然』こそ本来の生き方だ、という荘子の思想を表している。
7. つまずきやすいポイント・入試での問われ方
- 「儵」「忽」は人名だが、もともと『たちまち・すばやい』という意味の語であることを問われやすい。読み(しゅく・こつ)と、二人が『せわしない人為』を象徴する点をセットで覚える。
- 「七竅」が具体的に何を指すか(両目・両耳・両鼻孔・口の七つの穴)と、その読み(しちけう)が問われる。
- 「嘗試みに之を鑿たん」の『ん』を意志(~しよう)と正しくとれるか、また『嘗試みに=ためしに』の意味が問われやすい。
- 渾沌が死んだ『理由』を本文に即して説明させる記述問題が定番。『良かれと思った人為が本来の自然をこわした』という主題に結びつけて書けるかがポイント。
- 「日鑿一竅」の『日に』を『毎日・一日ごとに』と訳せるか、また『而』を順接の接続(そして)ととれるかが問われる。
8. まとめ
・『荘子』応帝王篇の寓話。南海の帝・儵、北海の帝・忽、中央の帝・渾沌が登場する。
・渾沌の手厚いもてなしへの恩返しのつもりで、儵と忽が一日一つずつ穴をあけたら、七日目に渾沌は死んだ。
・渾沌=あるがままの自然、儵・忽=すばやい人為の象徴。良かれと思った作為が自然の本性をこわす、というたとえ。
・主題は荘子の『無為自然』。手を加えず自然のままに任せることの大切さを説いている。
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