1. はじめに
『枕草子』の「にくきもの」は、清少納言が「しゃくにさわるもの・いやだと感じるもの」を次々と書きつらねた、いわゆる「ものづくし(類聚的章段)」の代表例です。急いでいるのに来て長話をする客、眠ろうとすると顔の周りを飛びまわる蚊、衣の下でぴょんぴょん跳ねる蚤など、千年前の人も今の私たちと同じように腹を立てていたことがわかり、思わず笑ってしまう段です。
日常のちょっとした「あるある」を、するどい観察眼とテンポのよい短い文で切り取っていくのが読みどころです。難しい物語ではなく身近な不快感を題材にしているので、清少納言のユーモアと感受性を味わいながら、古文の形容詞・形容動詞の活用や係り結びを学ぶのにぴったりの教材です。
2. 原文
【客・修験者】
にくきもの。急ぐことあるをりに来て、長言するまらうど。あなづりやすき人ならば、「のちに」とてもやりつべけれど、さすがに心恥づかしき人、いとにくくむつかし。
硯に髪の入りてすられたる。また、墨の中に、石のきしきしときしみ鳴りたる。
にはかにわづらふ人のあるに、験者求むるに、例ある所になくて、ほかに尋ねありくほどに、待ち遠に久しきに、からうじて待ちつけて、よろこびながら加持せさするに、このごろ物の怪にあづかりて困 じにけるにや、ゐるままにすなはちねぶり声なる、いとにくし。
【蚊・蚤】
ねぶたしと思ひて臥したるに、蚊の細声にわびしげに名のりて、顔のほどに飛びありく。羽風さへその身のほどにあるこそ、いとにくけれ。
蚤もいとにくし。衣の下に躍りありきて、もたぐるやうにする。
3. 現代語訳(やさしい言葉で)
【客・修験者】
しゃくにさわるもの。急ぎの用事があるときにやって来て、長話をする客。気軽に扱える相手ならば、「あとで(また)」とでも言って帰してしまえるのだが、そうはいっても(こちらが)気のおける立派な人だと、(追い返せず)とてもしゃくにさわって不愉快だ。
硯に髪の毛が入ったまま墨をすられているの。また、墨の中に石が(まじっていて)きしきしときしんで音を立てているの。
急に病気で苦しむ人がいるので、修験者を呼び求めるのに、いつもいる所にいなくて、よそに探し回っているうちに、待ち遠しく時間がかかり、やっとのことで(修験者を)見つけて連れてきて、喜びながら加持祈祷をさせると、このごろ物の怪の調伏で疲れきってしまっているのか、座るとすぐに眠そうな声になる(者)は、まったくしゃくにさわる。
【蚊・蚤】
眠たいと思って横になっているところに、蚊が細い声でいかにも心細げに(自分の存在を)名のるように鳴いて、顔のあたりを飛びまわる。(その小さな体に似合わず)羽風までもがその身の大きさ相応にあるのは、本当にしゃくにさわる。
蚤もとてもいやなものだ。着物の下で跳ねまわって、(着物を)持ち上げるようにする。
4. 重要語句
- にくし…しゃくにさわる・いやだ・気にくわない。現代語の「憎い」ほど強くなく、不快・腹立たしいの意。
- をり(折)…とき・時機・場合。「急ぐことあるをり」で「急ぎの用事があるとき」。
- まらうど(客人)…客。来訪者。
- あなづる…軽く見る・見くびる。「あなづりやすき人」で「気軽に(遠慮なく)扱える相手」。
- 心恥づかし…(相手が立派で)こちらが気おくれする・気がひけるほどだ。立派で気がひける。
- むつかし…不愉快だ・うっとうしい・煩わしい。
- 験者(げんざ)…加持祈祷で物の怪を退散させる修験者・祈祷師。
- からうじて…やっとのことで・かろうじて。
- 加持(かぢ)…病気平癒などのために行う祈祷。
- わびし…つらい・心細い・やるせない。「わびしげ」で心細そうな様子。
- 羽風(はかぜ)…羽ばたきで起こる風。蚊の羽音と空気の動き。
- もたぐ…持ち上げる。蚤が跳ねて着物を持ち上げるように動かす様子。
5. 文法・読解のポイント
- 形容詞「にくし」の活用と係り結び…「にくし」はク活用の形容詞。連体形「にくき(もの)」、連用形「にくく」、終止形「にくし」、已然形「にくけれ」が登場する。とくに「羽風さへ…あるこそ、いとにくけれ」は、係助詞「こそ」の結びで已然形「にくけれ」になる係り結びの典型例で、テストで頻出。
- 助動詞「べし」+「つ」の用法…「やりつべけれど」は、完了(強意)の助動詞「つ」の終止形+可能・推量の助動詞「べし」の已然形「べけれ」+接続助詞「ど」。「(追い返して)しまうことができそうだが」と、強意+可能でとらえると訳しやすい。
- 形容動詞ナリ活用「わびしげなり」…「わびしげに名のりて」の「わびしげに」は、ナリ活用の形容動詞「わびしげなり」の連用形。「いかにも心細そうに」の意。形容詞の語幹+「げ」で『~そうな様子だ』を作る点に注意。
- 擬人法(蚊の鳴き声を「名のる」と表現)…蚊が鳴くのを「細声にわびしげに名のりて」と、人間が名を告げるように表現している。小さな蚊をユーモラスにとらえる清少納言らしい比喩・擬人表現。
- 副助詞「さへ」の意味…「羽風さへ」の「さへ」は添加の副助詞で「(鳴き声だけでなく)羽風までもが」の意。「だに」(最小限・類推)との違いを問われやすい。
- 「にくきもの」という体言止め・列挙の構成…段全体が「~もの」「~たる」「~。」と短く言い切る形で、いやなものを次々と列挙する「ものづくし(類聚的章段)」の形式。主語や述語を省いた歯切れのよい文体が特徴。
6. 主題・あらすじ・背景
あらすじ:清少納言が「しゃくにさわるもの・いやなもの」を思いつくままに列挙していく段。急いでいるのに長話をしていく客、気軽に追い返せない立派な相手、硯に髪が入ったまますられた墨、石がまじってきしむ墨、やっと呼んだのに居眠りを始める修験者、眠ろうとすると顔の周りを心細げに飛びまわる蚊、着物の下で跳ねまわる蚤など、日常の小さな不快が次々と挙げられる。物語的な筋はなく、身近な「あるある」を鋭い観察とユーモアで切り取った類聚的章段である。
主題:日常生活の中で清少納言が「いやだ・しゃくにさわる」と感じる事物や人の振る舞いを列挙し、その鋭い観察眼・美意識とユーモアを示すこと。心の機微や気のきかなさへのいらだちを通して、作者の感受性と価値観が表れている。
背景:『枕草子』は平安時代中期(一〇〇〇年前後)、一条天皇の中宮定子に仕えた清少納言が著した日本最初の随筆。内容は大きく「類聚的章段(ものづくし)」「日記的章段」「随想的章段」に分けられ、「にくきもの」は「うつくしきもの」「すさまじきもの」などと並ぶ類聚的章段の代表。宮廷生活の洗練された美意識(「をかし」の文学)を背景に、身近な題材を機知に富んだ短文で描き出している。
確認クイズ(3問)
「にくし」は現代語の「憎い」と同じ意味だと考えてよいですか。
いいえ。古文の「にくし」は「しゃくにさわる・いやだ・気にくわない」という不快感を表し、現代語の「憎しみ」ほど強い感情ではありません。
「羽風さへその身のほどにあるこそ、いとにくけれ」で、文末が「にくし」ではなく「にくけれ」になっているのはなぜですか。
係助詞「こそ」があるため、結びの語が已然形「にくけれ」になっています。これを係り結び(こそ→已然形)といいます。
「にくきもの」は『枕草子』の三つの章段分類のうち、どれにあたりますか。
「うつくしきもの」などと同じ「類聚的章段(ものづくし)」です。あるテーマに合う事物を次々と列挙する形式の段です。
7. つまずきやすいポイント・入試での問われ方
- 「にくし」を「憎い・憎しみ」と強く訳してしまう。正しくは「しゃくにさわる・いやだ」程度の不快感。
- 「こそ…にくけれ」の係り結びを見落とし、已然形「にくけれ」を終止形と混同する(記述・空所補充で頻出)。
- 「やりつべけれど」の品詞分解を問われたときに、「つ(完了・強意)+べし(可能・推量)」の二語が重なっている点を取りこぼす。
- 「心恥づかし」を「恥ずかしい」と現代語感覚で訳す。正しくは「(相手が立派で)こちらが気おくれする・気がひける」の意。
- 「さへ」(添加=までも)と「だに」(類推・最小限)の意味の違いを問われる。
8. まとめ
・「にくきもの」は、いやな・しゃくにさわるものを列挙した『枕草子』の類聚的章段(ものづくし)の代表例。
・客・修験者・蚊・蚤など、千年前も今も変わらない身近な不快を、鋭い観察とユーモアで描いている。
・文法の核は形容詞「にくし」の活用と「こそ…にくけれ」の係り結び、そして「つ+べし」の助動詞の重なり。
・短く言い切る歯切れのよい文体に、清少納言の感受性と「をかし」の美意識が表れている。
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