紫式部日記『日本紀の御局』をやさしく解説|現代語訳・重要語句・読解のポイント

作品解説

1. はじめに

『紫式部日記』の「日本紀の御局(にほんぎのみつぼね)」は、作者・紫式部が、宮中で受けた心ない陰口や、自分につけられた不名誉なあだ名について書いた段です。きっかけは、一条天皇が『源氏物語』を読ませてお聞きになり、「この作者は『日本書紀』を読んでいるにちがいない、本当に学才がある」とおっしゃったこと。その言葉を左衛門の内侍という女房が当て推量で取り違え、「紫式部はひどく学才をひけらかしている」と言いふらして「日本紀の御局」というあだ名をつけてしまいます。

読みどころは、才能をほめられたはずの言葉が、かえって悪口の種になってしまう宮仕えの息苦しさと、それに対して紫式部が「漢字の『一』さえ人前で書かないようにしている」と、わざと才能を隠してつつましく振る舞う姿です。平安時代、女性が学識を表に出すことがよく思われなかった時代背景を知ると、紫式部の屈折した心情がよく分かります。

2. 原文

【本文】
左衛門の内侍といふ人はべり。あやしうすずろによからず思ひけるも、え知りはべらぬ心憂きしりうごとの、多う聞こえはべりし。

【本文】
内裏の上の、『源氏の物語』、人に読ませたまひつつ聞こしめしけるに、「この人は、日本紀をこそ読みたるべけれ。まことに才あるべし。」と、のたまはせけるを、ふとおしはかりに、「いみじうなむ才がる。」と殿上人などに言ひ散らして、「日本紀の御局」とぞつけたりける、いとをかしくぞはべる。この古里の女の前にてだにつつみはべるものを、さる所にて才さかし出ではべらむよ。

【本文】
この式部の丞といふ人の、童にて書読みはべりし時、聞き習ひつつ、かの人は遅う読みとり、忘るるところをも、あやしきまでぞ聡くはべりしかば、書に心入れたる親は、「口惜しう。男子にて持たらぬこそ幸ひなかりけれ。」とぞ、つねに嘆かれはべりし。

【本文】
それを、「男だに才がりぬる人は、いかにぞや、はなやかならずのみはべるめるよ。」と、やうやう人の言ふも聞きとめて後、一といふ文字をだに書きわたしはべらず、いとてづつに、あさましくはべり。

3. 現代語訳(やさしい言葉で)

【現代語訳】
左衛門の内侍という人がおります。(その人が)妙にわけもなく私のことをよく思っていなかったのも、(私には)心当たりのない、つらい陰口がたくさん聞こえてまいりました。

【現代語訳】
帝が、『源氏物語』を、人にお読ませになってはお聞きになっていたときに、「この作者は、きっと『日本書紀』を読んでいるにちがいない。本当に学才があるようだ。」とおっしゃったのを、(左衛門の内侍が)とっさに当て推量で、「(紫式部は)たいそう学才をひけらかしている。」と殿上人などに言いふらして、「日本紀の御局」とあだ名をつけてしまったのは、まったくおかしなことでございます。この実家の侍女の前でさえ(学識を)遠慮しておりますのに、そのような(宮中の)所で学才をひけらかしたりするでしょうか、いやしません。

【現代語訳】
この式部の丞という人(=私の弟の惟規)が、子どものころに漢籍を読んでおりました時、(私は)そばで聞き習っていたのですが、あの人(=弟)は読み取るのが遅く、忘れてしまう所をも、(私は)不思議なほどはやく理解いたしましたので、漢学に熱心だった父は、「残念なことだ。この子が男の子でなかったことが、(私の)不運であったよ。」と、いつも嘆いておられました。

【現代語訳】
それなのに、「男でさえ、学才をひけらかす人は、どうであろうか(ろくなことがない)、栄えないようでございますよ。」と、だんだんと世間の人が言うのを聞きとめてからは、(私は)漢字の「一」という文字さえも(人前で)書いて見せず、まったく不器用に(ふるまい)、あきれるほど(無学なふりをして)おります。

4. 重要語句

  • あやし…妙だ。不審だ。わけがわからない。ここは「すずろに」とともに、理由もなく嫌われる気味の悪さを表す。
  • すずろなり…なんとなく・わけもなく。これといった理由・根拠がないさま。
  • しりうごと(後言)…本人のいない所で言う悪口。陰口。
  • 内裏の上(うちのうへ)…帝。ここでは一条天皇を指す。
  • 日本紀(にほんぎ)…『日本書紀』。広く漢文で書かれた正史。漢学の素養の象徴。
  • 才(ざえ)…漢学の学才・教養。当時、男性の教養とされた漢籍の知識。
  • 才がる…学才をひけらかす。利口ぶる。
  • おしはかり(推し量り)…当て推量。確かめずに勝手に推測すること。
  • 言ひ散らす…あちこちに言いふらす。
  • 古里(ふるさと)…実家。生まれ育った家。
  • だに…~さえ。軽いものを挙げて重いものを類推させる副助詞。
  • てづつなり(手づつなり)…不器用だ。下手だ。ここは無学なふりをするさまをいう。

5. 文法・読解のポイント

  • 敬語「のたまはす」の方向…「のたまはせける」は「言ふ」の尊敬語で「おっしゃる」の意。発言主の一条天皇(帝)への敬意を表す(作者→帝)。最高敬語に近い高い敬意の語。
  • 敬語「聞こしめす」「読ませたまふ」…「聞こしめし」は「聞く」の尊敬語で帝への敬意。「読ませたまひ」は使役の助動詞「す」(〜させる)+尊敬の補助動詞「たまふ」で、「(人に)お読ませになる」。動作主の帝を高める二重の敬意表現。
  • 係り結び「こそ〜べけれ」…「日本紀をこそ読みたるべけれ」は係助詞「こそ」を受けて、推量の助動詞「べし」が已然形「べけれ」で結ばれている。係り結びの法則。「べし」は強い推量「きっと〜だろう」。
  • 助動詞「べし」の用法…「読みたるべけれ」「才あるべし」の「べし」はいずれも推量。終止形・連体形に接続するのが原則だが、ラ変型「あり」には連体形に付く(「あるべし」)点に注意。
  • 副助詞「だに」(類推)…「女の前にてだに」「一といふ文字をだに」の「だに」は「〜さえ」。軽い事柄を挙げて重い事柄を類推させる用法。実家の侍女の前でさえ控えるのだから、まして宮中では…という含み。
  • 反語・婉曲の表現…「才さかし出ではべらむよ」は「〜だろうか、いや、しない」という反語的なニュアンス。「む」は推量・婉曲の助動詞。自分は才をひけらかさないと強く否定している。
  • 受身・自発の「る」…「つねに嘆かれはべりし」の「れ」は助動詞「る」。ここは親が「嘆く」動作で、文脈上は自発・尊敬どちらにも解しうるが、親への軽い敬意(尊敬)または自然に嘆かずにいられない自発と説明される。識別が問われやすい。

6. 主題・あらすじ・背景

あらすじ:紫式部は、左衛門の内侍という女房から理由もなく嫌われ、心当たりのない陰口を多く立てられていた。発端は、一条天皇が『源氏物語』を読ませて聞き、「作者は『日本書紀』を読んでいるにちがいない、本当に学才がある」とほめた一言である。これを左衛門の内侍が当て推量で取り違え、「紫式部はひどく学才をひけらかしている」と殿上人に言いふらし、「日本紀の御局」というあだ名をつけてしまった。紫式部は「実家の侍女の前でさえ学識を控えているのに、宮中で才をひけらかすはずがない」とあきれる。さらに、弟の惟規が子どものころ漢籍を読むのを横で聞いて、弟より早く覚えてしまい、父が「お前が男でなかったのは不運だ」と嘆いたという思い出を語る。だが「男でさえ才をひけらかす者はろくな目に遭わない」と世間が言うのを聞いて以来、漢字の「一」さえ人前では書かず、無学なふりをして暮らしている、と結ぶ。

主題才能をほめられた言葉が、かえって嫉妬と誤解によるあだ名・陰口を生んでしまう宮仕えの人間関係の難しさ。そして、女性が学識を表に出すことを良しとしない時代の中で、あえて才を隠し、つつましく振る舞わざるをえなかった紫式部の屈折した心情。

背景:『紫式部日記』は、平安中期、一条天皇の中宮彰子(藤原道長の娘)に仕えた紫式部が、宮廷での出来事や自身の思いを記した日記。『源氏物語』の作者として知られる紫式部が、当時すでに高い評価を受けていたことがこの段からうかがえる。一方、平安時代には、漢学(才)は男性の教養とされ、女性が漢籍の知識を表立って示すことは「出すぎている」と否定的に見られた。だからこそ、天皇のほめ言葉が左衛門の内侍の嫉妬を招き、「日本紀の御局」という皮肉まじりのあだ名となった。実際の紫式部は中宮彰子に請われて『白氏文集』を進講する(「楽府の御進講」)ほどの学識があったが、それを隠し、無学を装っていた事情が背景にある。

確認クイズ(3問)

「日本紀の御局」というあだ名は、もともと何がきっかけでつけられましたか。

一条天皇が『源氏物語』を聞いて「作者は『日本書紀』を読んでいるにちがいない、本当に学才がある」とほめた言葉が、左衛門の内侍に当て推量で取り違えられ、「学才をひけらかしている」と言いふらされたのがきっかけ。

「この人は、日本紀をこそ読みたるべけれ」の「べけれ」が已然形になっているのはなぜですか。

係助詞「こそ」を受けて結ぶ、係り結びの法則のため。「こそ」は已然形で結ぶので、推量の助動詞「べし」が已然形「べけれ」になっている。

紫式部が「一といふ文字をだに書きわたしはべらず」と述べているのは、どんな気持ちからですか。

女性が学識をひけらかすことが世間に良く思われない(男でさえ才をひけらかす者はろくな目に遭わない)と聞いて、漢字の『一』さえ人前で書かず、無学を装ってつつましく振る舞おうとする気持ちから。

7. つまずきやすいポイント・入試での問われ方

  • 「日本紀の御局」というあだ名を「ほめ言葉」と取り違えやすいが、実際は嫉妬・皮肉をこめた不名誉なあだ名である点を押さえる。
  • 「のたまはす」「聞こしめす」「読ませたまふ」など敬語の種類(尊敬語か謙譲語か)と誰への敬意かが頻出。すべて帝への敬意であることを確認する。
  • 「こそ〜べけれ」の係り結び、「べし」の意味(推量)、活用形(已然形)を問う設問が多い。
  • 「だに」の意味(〜さえ)と類推の用法を、現代語の「だに(=すら)」と混同しないよう注意。
  • 弟(式部の丞=藤原惟規)と父(藤原為時)のエピソードが、紫式部の学才の高さと『男だったら』という父の嘆きを示す挿話であることを理解する。

8. まとめ

・天皇のほめ言葉が誤解・嫉妬を生み、「日本紀の御局」という不名誉なあだ名につながった経緯を描く段。

・紫式部は高い漢学の才を持ちながら、女性が学識を見せることが嫌われた時代背景の中で、あえて才を隠して『一』の字さえ書かないほど慎んでいた。

・敬語(のたまはす・聞こしめす・読ませたまふ)はすべて帝への敬意、係り結び『こそ〜べけれ』、副助詞『だに』が読解・文法の要点。

・弟より早く漢籍を覚え、父に『男でなかったのが残念』と嘆かせた挿話が、紫式部の才能と屈折した心情を裏づける。

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