『源氏物語』の中でもとくに有名な、こわくて切ない場面――「夕顔(廃院の怪)」を読んでいきます。光源氏(ひかるげんじ)が、ひっそりと愛した「夕顔(ゆうがお)の女」と、人けのない荒れはてた屋敷で一夜を過ごすうち、夜中にもののけ(物の怪)におそわれ、夕顔が息絶えてしまう――そんな一夜の出来事です。
『源氏物語』全五十四帖のうち第四帖にあたり、若き日の光源氏が経験する「ふしぎでこわい恋の事件」として、古くから多くの教科書に採られてきた名場面です。一夜にして恋人を失う光源氏のうろたえぶりが、なまなましく描かれます。

1. この場面までのあらすじ
光源氏は、五条あたりの粗末な家に住む、身分のはっきりしない女性と知り合います。彼女が「夕顔」の花をそえて歌を届けてきたことから、源氏は「夕顔の女」と呼んで通うようになりました。お互いに本名も名のらないまま、源氏は彼女に強く心ひかれていきます。
そしてある夜、人目をさけて、源氏は夕顔を「なにがしの院」(某の院)と呼ばれる、だれも住んでいない荒れた屋敷へ連れ出します。お供は、女房の右近(うこん)ら、ごくわずか。静かに二人きりで過ごすはずだった――そこへ、異変が起こります。
2. 原文(採録範囲について)
『源氏物語』はとても長い作品なので、この記事では教科書でも定番の、もののけが現れる場面の冒頭から、夕顔が息絶えて源氏が「生き返ってくれ」と叫ぶところまでを取り上げます。具体的には、原文「宵過ぐるほど、すこし寝入りたまへるに……」から「……いといみじき目な見せたまひそ」までです。
その先(惟光(これみつ)を呼びにやり、夜明けを待つ場面など)も同じ章に続きますが、まずはこの山場をていねいに読みましょう。
※本文は、渋谷栄一氏校訂の本文(源氏物語の会・電子テキスト)などをもとに、複数の信頼できる本文と照合して確認したものです。歴史的仮名遣いのまま表記しています。
宵過ぐるほど、すこし寝入りたまへるに、御枕上(みまくらがみ)に、いとをかしげなる女ゐて、
「己(おの)がいとめでたしと見たてまつるをば、尋ね思ほさで、かく、ことなることなき人を率(ゐ)ておはして、時めかしたまふこそ、いとめざましくつらけれ」
とて、この御かたはらの人をかき起こさむとす、と見たまふ。物に襲はるる心地して、おどろきたまへれば、火も消えにけり。うたて思さるれば、太刀を引き抜きて、うち置きたまひて、右近を起こしたまふ。これも恐ろしと思ひたるさまにて、参り寄れり。
「渡殿(わたどの)なる宿直人(とのゐびと)起こして、『紙燭(しそく)さして参れ』と言へ」とのたまへば、
「いかでかまからむ。暗うて」と言へば、
「あな、若々し」と、うち笑ひたまひて、手をたたきたまへば、山彦(やまびこ)の答ふる声、いとうとまし。人え聞きつけで参らぬに、この女君、いみじくわななきまどひて、いかさまにせむと思へり。汗もしとどになりて、我かの気色(けしき)なり。……(中略:源氏は右近をなだめ、西の妻戸を開けて宿直の男を呼び、灯りを取りに行かせる)……
帰り入りて、探りたまへば、女君はさながら臥(ふ)して、右近はかたはらにうつぶし臥したり。
「こはなぞ。あな、もの狂ほしの物怖ぢや。荒れたる所は、狐などやうのものの、人を脅(おびや)かさむとて、け恐ろしう思はするならむ。まろあれば、さやうのものには脅されじ」とて、引き起こしたまふ。「そよ。などかうは」とて、かい探りたまふに、息もせず。引き動かしたまへど、なよなよとして、我にもあらぬさまなれば、「いといたく若びたる人にて、物にけどられぬるなめり」と、せむかたなき心地したまふ。
……(紙燭を近くへ持って来させると)……ただこの枕上に、夢に見えつる容貌(かたち)したる女、面影(おもかげ)に見えて、ふと消え失せぬ。
「昔の物語などにこそ、かかることは聞け」と、いとめづらかにむくつけけれど、まづ、「この人いかになりぬるぞ」と思ほす心騒ぎに、身の上も知られたまはず、添ひ臥して、「やや」と、おどろかしたまへど、ただ冷えに冷え入りて、息は疾(と)く絶え果てにけり。……さこそ強がりたまへど、若き御心にて、いふかひなくなりぬるを見たまふに、やるかたなくて、つと抱きて、
「あが君、生き出でたまへ。いといみじき目な見せたまひそ」
3. 現代語訳
原文の段落に対応させて、やさしい言葉に直しました。
宵を過ぎるころ、(源氏が)少しお眠りになっていると、枕もとに、たいへん美しい様子の女が座っていて、
「わたしが(あなたを)とてもすばらしい方とお慕い申し上げているのに、その私のことは訪ねようともなさらず、こうして、たいして取りえもない女を連れていらっしゃって、ご寵愛なさるのは、ほんとうに心外で、うらめしいことです」
と言って、源氏のおそばの人(=夕顔)を引き起こそうとしている――と、(源氏は夢に)御覧になる。何かにおそわれるような気持ちがして、はっと目をお覚ましになると、灯火(ともしび)も消えてしまっていた。気味悪くお思いになるので、太刀を引き抜いて、そっとそばにお置きになって、右近をお起こしになる。右近も、こわがっている様子で、(源氏のそばに)にじり寄ってきた。
「渡り廊下にいる宿直(とのい)の者を起こして、『紙燭(手で持つ灯り)をともして持って来い』と言いなさい」とおっしゃると、
「どうして行けましょうか、暗くて(こわくて)」と(右近が)言うので、
「ああ、子どもっぽいね」と、源氏は少しお笑いになって、手をパンと打ち鳴らされると、その音がこだまして返ってくる声が、なんとも気味が悪い。だれも気づいて来ないので、この女君(=夕顔)は、ひどくふるえおびえて、どうしてよいか分からない様子である。汗もびっしょりになって、正気を失ったようなありさまである。……(源氏は「むやみにこわがる人だから」と夕顔をいたわり、右近を引き寄せて西の妻戸を開け、宿直の男を呼んで灯りを取りに行かせる)……
(源氏が)戻って来て、(夕顔を)手さぐりでお確かめになると、女君はそのまま倒れ伏していて、右近もそのそばにうつ伏せに倒れている。
「これはどうしたことだ。なんとまあ、正気を失ったようなこわがりようだ。荒れた場所には、狐のようなものが、人をおどかそうとして、こんなふうにこわがらせるのだろう。わたしがついているからには、そんなものにはおどかされはしない」と言って、(夕顔を)引き起こしなさる。「そうだ、どうしてこんなに(ぐったりして)」と言って、手さぐりでお探りになると、息もしていない。揺り動かしなさっても、ぐったりとして、正体もない様子なので、「ほんとうにひどく子どもっぽい人なので、もののけに取りつかれてしまったらしい」と、どうしようもない気持ちでいらっしゃる。
……(紙燭を近くへ持って来させると)……ちょうどこの枕もとに、さきほど夢に現れた姿の女が、まぼろしのように見えて、ふっと消えてしまった。
「昔の物語などでこそ、こういうことは聞くけれど」と、たいそう異様で気味が悪いけれど、まず「この人(=夕顔)はどうなってしまったのか」とお思いになる動揺で、ご自分の身の危険も顧みず、添い寝して「もし、もし」とお起こしになるが、ただもう冷えきっていて、息はとっくに絶えはててしまっていた。……あれほど強がりなさっても、お若いお心では、(夕顔が)あっけなく亡くなってしまったのを御覧になると、どうしようもなくて、しっかと抱きしめて、
「いとしいおまえ、生き返っておくれ。こんなにつらい目を見せないでおくれ」(とおっしゃる)。
4. 重要語句・敬語・文法のポイント
この場面は、入試でも問われやすい古語・敬語・文法のかたまりです。すでに学んだことを思い出しながら、ひとつずつ確認しましょう。
(1) おさえたい重要古語
- をかしげなり(形容動詞)…「美しそうだ・かわいらしい様子だ」。「をかし」=美しい・趣がある、に「〜げなり(〜のように見える)」が付いた形。ここでは夢に現れた女の「いとをかしげなる」姿で、不気味な美しさを表します。
- めざまし…「心外だ・気にくわない」。現代語の「目覚ましい(すばらしい)」とは意味が逆なので要注意。もののけが、源氏が夕顔を寵愛するのを「めざましくつらけれ」=心外でうらめしい、と恨んでいます。
- うたて(副詞)…「気味が悪く・いやな感じで」。「うたて思さるれば」=気味悪くお思いになるので。
- うとまし…「気味が悪い・いやだ」。こだまの声を「いとうとまし」と感じています。
- わななく…「(こわさ・寒さで)ぶるぶるふるえる」。夕顔が「いみじくわななきまどひて」=ひどくふるえおびえて。
- しとど…「びっしょり」。「汗もしとどになりて」。
- 我か(の気色)…「正気を失ったような(様子)」。「我か人か」(自分か他人かも分からない)から来た言い方。
- むくつけし/めづらか…「むくつけし」=気味が悪い・無気味だ。「めづらか」=(よくない意味で)異様だ・尋常でない。「いとめづらかにむくつけけれど」。
- いふかひなし…「言ってもしかたがない・どうしようもない」。ここでは夕顔が亡くなったことを「いふかひなくなりぬる」(あっけなく死んでしまった)と表します。
- あが君…「いとしいあなた・わが君よ」。愛する相手への切ない呼びかけ。
(2) 敬語の「方向」を読む
古文の敬語は、「だれからだれへの敬意か」を読み取ることが大切です。この場面では、語り手(作者)が主人公・光源氏を高めているので、源氏の動作には尊敬語がたくさん付きます。
- たまふ(尊敬の補助動詞)…「〜なさる」。「寝入りたまへる」「おどろきたまへれば」「のたまへ(=言ふの尊敬)」など、源氏の動作に一貫して付き、作者から源氏への敬意を表します。
- のたまふ…「言ふ」の尊敬語=「おっしゃる」。源氏が話す場面で使われます。
- 思す(おぼす)/思ほす(おぼほす)…「思ふ」の尊敬語=「お思いになる」。源氏の心情に付きます。
- 見たてまつる…「見」+謙譲の補助動詞「たてまつる」。注目したいのは、これを言っているのがもののけ(女の霊)だという点です。「(私が源氏を)すばらしいと見たてまつる」=お慕い申し上げる、と、霊から源氏への敬意になっています。怨霊でさえ源氏を高く扱う書き方です。
ワンポイント:尊敬語=動作をする人を高める/謙譲語=動作の受け手を高める。「たまふ(尊敬)」は源氏自身を、「たてまつる(謙譲)」は源氏を“相手として”高めています。
(3) 助動詞・係り結び・呼応
- 係り結び「こそ〜(已然形)」:もののけの言葉「時めかしたまふこそ、いとめざましくつらけれ」。係助詞「こそ」を受けて、文末が形容詞の已然形「つらけれ」で結ばれています。強調の係り結びの典型例です。
- 係り結び「こそ〜(已然形)」+逆接:「昔の物語などにこそ、かかることは聞け(=聞く/の已然形)」。ここは「こそ…已然形」で文がいったん結ばれ、そのあとに「…けれど(だが実際は…)」と逆接でつながる、よくある形です。「昔話でこそ聞くが、まさか現実に」というニュアンス。
- 完了・存続の「ぬ」「り」「たり」:「火も消えにけり」(「ぬ」の連用形+「けり」で“消えてしまった”)、「うつぶし臥したり」(存続“〜ている”)。
- 過去・詠嘆の「けり」:「絶え果てにけり」=絶えはててしまっていた。物語の地の文で、出来事をしみじみと語ります。
- 推定・伝聞の「なり」と「なめり」:「物にけどられぬるなめり」=取りつかれてしまったようだ。「なるめり」が縮まった形で、目の前の様子からの推定を表します。
- 禁止の「な〜そ」:「いといみじき目な見せたまひそ」=つらい目を見せないでおくれ。副詞「な」と終助詞「そ」ではさんで、やわらかい禁止・願いを表す重要表現です。
- 打消+意志の「じ」:「さやうのものには脅されじ」=おどかされまい(おどかされはしないぞ)。源氏の強がりがにじみます。
5. 主題・あらすじ・背景
この場面の主題
大きなテーマは、「愛する人の突然の死と、若い光源氏の無力さ」です。ふだんは余裕のある貴公子の源氏が、ここでは「まろあれば脅されじ(自分がいれば大丈夫だ)」と強がりながらも、目の前で恋人を失い、ただ抱きしめて「生き返っておくれ」と叫ぶことしかできません。完璧に見えた主人公の、もろくて人間くさい一面が描かれます。
もう一つの読みどころは、「もののけ=目に見えない嫉妬」です。枕もとに現れた女の霊は、自分を訪ねず、別の女(夕顔)を寵愛する源氏を恨みます。だれの霊なのかは本文に書かれませんが、源氏をめぐる女性たちの嫉妬(しっと)や情念が、もののけという形をとって人の命を奪う――平安の人々が信じた「物の怪」「生霊(いきりょう)」の世界観がよく表れた場面です。
作者と時代背景
『源氏物語』の作者は紫式部(むらさきしきぶ)。今からおよそ千年前、平安時代の中ごろ(11世紀初め)に書かれた、世界でも最古級の長編物語です。全五十四帖からなり、光源氏という一人の貴公子の恋と栄華、そしてその子孫たちの物語を、四代・約七十年にわたって描きます。
平安時代の貴族社会では、病気や急死の原因を「もののけ(物の怪)」のしわざと考えることがふつうでした。生きている人の強い恨みが体をぬけ出してさまよう「生霊」や、死者の霊「死霊」が、人にとりつくと信じられていたのです。本文の「誦経(ずきやう)などをこそはすなれ」は、「こういう時には読経などをするものだ(が、その僧も近くにいない)」という意味で、頼れる者のいない心細さがにじんでいます。こうした背景を知ると、この場面のこわさと切なさがいっそうよく分かります。
読解のまとめ
- 場面:人けのない荒れた院で、夜中にもののけが現れ、夕顔が急死する。
- 人物:光源氏(主人公)/夕顔の女(亡くなる恋人)/右近(夕顔づきの女房)/枕もとに現れる女の霊(もののけ)。
- 主題:突然の死と源氏の無力さ/嫉妬がもののけとなる平安の心の世界。
- 表現のかなめ:尊敬語「たまふ・のたまふ・思す」、謙譲語「たてまつる」、係り結び「こそ〜已然形」、禁止「な〜そ」、推定「なめり」。
『源氏物語』の中でも、こわさと美しさ、そして悲しみが一つになった忘れがたい名場面です。声に出して読むと、夜の屋敷の静けさと、源氏の動揺がいっそう伝わってきますよ。
✅ 定期テスト前の仕上げに|この場面の確認テスト


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