1. はじめに
『讃岐典侍日記(さぬきのすけにっき)』は、平安時代後期に堀河天皇・鳥羽天皇という二代の天皇に仕えた女房、藤原長子(讃岐典侍)が書いた日記です。教科書で「鳥羽天皇との別れ」「ついたちの日の」などの題で採られるこの場面は、下巻の一節。作者が深く慕った堀河天皇を病で亡くしたあと、白河院の命でやむなく幼い鳥羽天皇のもとへ再び宮仕えに上がった――その再出仕した年が明けた正月、元日(ついたちの日)の夜と翌朝のことが描かれます。
宮中の同じ場所にいながら、もうそこに先帝(堀河天皇)はいない――この『いるはずの人がいない』感覚が、作者の悲しみをかき立てます。幼い鳥羽天皇が雪を見て「降れ降れ、こ雪」とあどけなく言う愛らしい姿さえ、かえって亡き先帝への追慕を募らせていく。新しい主への奉仕と、亡き主への思慕とが入りまじる、せつない心情が読みどころです。
2. 原文
【前半(参内した夜)】
ついたちの日の夕さりぞ参りつきて、陣入るるより、昔思ひ出でられて、かきぞくらさるる。局に行きて見れば、こと所にわたらせ給ひたる心地して、その夜は何となくて明けぬ。
【後半(雪の朝)】
つとめて起きて見れば、雪のいたう降りたる。「降れ降れ、こ雪。」と、いはけなき御けはひにておほせらるる、聞こゆる。こは誰そ、誰が子にか、と思ふほどに、まことにさぞかし、と思ひ出でらるるにも、あはれにかなし。
3. 現代語訳(やさしい言葉で)
【前半(参内した夜)】
(正月)一日の日の夕方に(宮中に)参り着いて、陣の中に入るとすぐ、昔のことが自然と思い出されて、(涙で)目の前が真っ暗になってしまう。自分の局(部屋)に行って見ると、(亡き堀河天皇が)よそにお出ましになっていらっしゃるような気がして、その夜は何ということもなく明けてしまった。
【後半(雪の朝)】
翌朝起きて見ると、雪がたいそう降っている。「降れ降れ、小雪よ。」と、あどけないご様子でおっしゃっているのが聞こえる。これは誰なのか、誰の子なのかと思ううちに、ほんとうに(鳥羽天皇は)そうした幼い御方なのだなあと思い出されるにつけても、しみじみと胸が痛み、悲しい。
4. 重要語句
- ついたち…月の初めの日。一日(いちじつ)。ここでは正月一日(元日)を指す。
- 夕さり…夕方。「さり」は時が近づく意で、夕方になるころ。
- 参りつく…(宮中などに)参上し着く。「参る」は謙譲語で、参内する意。
- 陣(ぢん)…宮中の警護の詰め所。ここを通って内裏に入る。
- 思ひ出でらる…自然と思い出される。「らる」は自発の助動詞。
- かきくらす…(涙や悲しみで)目の前が真っ暗になる。心がふさぐ。ここは受身・自発の「るる」を伴う。
- 局(つぼね)…宮仕えの女房に与えられた部屋・住まい。
- わたる…(高貴な人が)よそへお出ましになる。移動なさる。
- つとめて…早朝。翌朝。
- いはけなし…幼い。あどけない。子どもっぽい。
- おほせらる…おっしゃる。「仰す」に尊敬の「らる」が付いた最高敬語的表現で、天皇への敬意。
- あはれなり…しみじみと心を打たれる。ここでは悲しく胸が痛むさま。
5. 文法・読解のポイント
- 自発の助動詞「る・らる」…「昔思ひ出でられて」の「られ」、「思ひ出でらるる」の「らるる」はいずれも自発。『〜せずにはいられない・自然と〜される』という、抑えきれない心の動きを表す。作者の意志ではなく、ひとりでに先帝の記憶があふれ出てくる点が主題と直結する。
- 係り結び「ぞ〜(連体形)」…「夕さりぞ参りつきて」「かきぞくらさるる」の「ぞ」は強意の係助詞。「かきぞくらさるる」では結びが連体形「くらさるる」で結ばれている。強調によって作者の悲しみの深さが際立つ。
- 尊敬語による敬意の方向…「わたらせ給ひたる」は『せ給ふ』の二重尊敬で、亡き堀河天皇(先帝)への最高の敬意。「おほせらる」は幼い鳥羽天皇への尊敬。誰に敬意を向けているかを取り違えないことが読解の要。
- 会話文の引用「〜と」…「降れ降れ、こ雪。」と〜おほせらるる、の部分は鳥羽天皇の幼いことばの直接引用。「と」で結ばれ、あどけない肉声がそのまま記される。
- 疑問・反語的な自問「こは誰そ、誰が子にか」…「誰そ」「誰が子にか」は疑問。係助詞「か」を受け、結びは省略(『あらむ』など)。あまりに幼い帝に接した作者の戸惑いと、先帝との落差を示す自問。
- 完了・存続の助動詞「ぬ・たり」…「明けぬ」の「ぬ」は完了、「雪のいたう降りたる」「わたらせ給ひたる」の「たる」は存続・完了。場面の時間経過と、目の前に続いている情景を描き分けている。
6. 主題・あらすじ・背景
あらすじ:再出仕した年が明けた正月、その元日(ついたちの日)の夕方、作者は幼い鳥羽天皇に仕えるべく宮中に参上する。警護の陣を通って内裏に入ったとたん、かつて堀河天皇に仕えた日々が自然と思い出され、涙で目の前が暗くなる。自分の局に入っても、亡き先帝が今もどこかにいらっしゃるような気がして、その夜は何となく明けてしまう。翌朝、雪が深く積もっているのを見ると、幼い鳥羽天皇が「降れ降れ、こ雪」とあどけなくおっしゃる声が聞こえてくる。これは誰なのかと思ううちに、ほんとうに幼い帝なのだと胸に迫り、亡き堀河天皇への思慕がいっそうこみ上げて、しみじみと悲しくなるのだった。
主題:亡き主君(堀河天皇)への深い追慕と喪失感。新しい主君である幼帝・鳥羽天皇への奉仕の中で、宮中の同じ場所・同じ風物がかえって先帝の不在を際立たせ、過去と現在のはざまで揺れる作者の哀切な心情を描く。愛らしい幼帝の姿すら悲しみを誘う点に、追懐の情の深さがにじむ。
背景:作者は藤原顕綱の娘・長子で、女房名を讃岐典侍という。嘉承二年(一一〇七)、深く仕えた堀河天皇が病で崩御し、作者は典侍を辞して里に下がった。しかし白河院(堀河天皇の父・院政を敷く上皇)の強い求めにより、心ならずもその秋(十月ごろ)、わずか数えで五歳の幼帝・鳥羽天皇のもとへ再び出仕することになる。日記は上巻で堀河天皇の発病から崩御までを、下巻で鳥羽天皇への再出仕の日々を記す。本文はその下巻の一節で、再出仕した年が明けた正月、元日(ついたちの日)の場面。天皇の病と死、そして追慕という、当時の女房日記としては異色の題材を扱う点に特色がある。成立は一一〇九年ごろとされる。
確認クイズ(3問)
「昔思ひ出でられて」の「られ」の文法的意味は何ですか。
自発(自然と〜される)の助動詞「らる」です。作者の意志に関係なく、亡き堀河天皇との日々がひとりでに思い出されてくる心情を表します。
「降れ降れ、こ雪。」と言っているのは誰で、作者はその様子をどう感じていますか。
幼い鳥羽天皇です。あどけなく愛らしい姿ですが、作者はそれを見てかえって亡き先帝(堀河天皇)への思慕がつのり、しみじみと悲しく感じています。
「こと所にわたらせ給ひたる心地して」とは、作者がどう感じたということですか。
亡き堀河天皇が、まるで今もどこかよそにお出ましになっていらっしゃるような気がした、ということ。先帝がもういない現実を受け入れきれない作者の喪失感を表します。
7. つまずきやすいポイント・入試での問われ方
- 「思ひ出でられて」「思ひ出でらるる」の『られ・らる』を受身と取り違えやすい。ここは自発で、『自然と〜される』と訳すのが正解。心情語と結びつく『る・らる』は自発を疑う。
- 『わたらせ給ふ』が誰への敬語かを問われる。対象は亡き堀河天皇(先帝)。鳥羽天皇への『おほせらる』と混同しないこと。
- 『この場面の作者の悲しみの原因』を説明させる記述が頻出。幼帝が憎いのではなく、その幼さ・あどけなさが先帝の不在を際立たせる点を押さえる。
- 『あはれにかなし』の心情説明。単なる『かわいい』ではなく、追慕と喪失の悲しみが核心。
- 係り結び『ぞ〜るる(連体形)』の結びの確認や、『こは誰そ、誰が子にか』の係助詞『か』の結びの省略が問われやすい。
8. まとめ
・『讃岐典侍日記』下巻の一節で、再出仕した年が明けた正月、元日(ついたちの日)の夜と翌朝を描く。
・主題は、亡き堀河天皇(先帝)への深い追慕と喪失感。同じ宮中にいることがかえって不在を際立たせる。
・幼帝が『降れ降れ、こ雪』とあどけなく言う愛らしい姿すら、作者には悲しみを誘うものとして描かれる。
・文法の急所は自発の『る・らる』、係り結び『ぞ』、敬語の方向(先帝への二重尊敬と幼帝への尊敬の区別)。
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