1. はじめに
『徒然草』第七十三段「世に語り伝ふること」は、世の中に出回るうわさや言い伝えのほとんどが「うそ(虚言)」であることを、兼好法師が鋭く見つめた段です。なぜうそが生まれ、どう広がり、なぜ「事実」として定着してしまうのか――人間の心理と情報の伝わり方を、現代のSNSやデマにもそのまま当てはまるような筆致で描いています。
読みどころは、ただ「うそはだめだ」と断じるのではなく、最後に兼好が示す『中庸(バランス)の構え』です。神仏の不思議や聖人の伝記まで頭から否定するのもよくない、かといって何でも信じきるのもよくない――「大体は本当らしく受け止めつつ、ひたすら信じこまず、また疑ったりあざ笑ったりしない」という、大人の知恵が結論になっています。
2. 原文
【冒頭】
世に語り伝ふること、まことはあいなきにや、多くは皆虚言なり。あるにも過ぎて人は物を言ひなすに、まして、年月過ぎ、境も隔たりぬれば、言ひたきままに語りなして、筆にも書きとどめぬれば、やがてまた定まりぬ。
【結び】
おほかたは、まことしくあひしらひて、ひとへに信ぜず、また、疑ひあざけるべからず。
3. 現代語訳(やさしい言葉で)
【冒頭】
世間で語り伝えていることは、真実(そのまま)ではおもしろくないからであろうか、多くはみなうそである。実際以上に(おおげさに)人は物事を言うものであるのに、まして、年月が過ぎ、その場所も(自分から)遠く離れてしまうと、言いたい放題に話を作り上げて語り、(さらに)文章にも書き留めてしまうと、そのままやはり(事実として)定着してしまう。
【結び】
だいたいのところは、(うそも)本当らしく受け止めて応対し、(だからといって)ひたすら信じこむのではなく、また、(むやみに)疑ったりあざ笑ったりしてはいけない。
4. 重要語句
- あいなし…おもしろくない。つまらない。気に入らない。気がきかない。
- まこと…真実。本当のこと。事実。
- 虚言(そらごと)…うそ。いつわり。事実でない作り話。
- あるにも過ぎて…実際(の事実)以上に。おおげさに。
- 言ひなす…(ことさらに)言いたてる。おおげさに言う。言いつくろう。
- まして…言うまでもなく。なおさら。いっそう。
- 境(さかひ)…場所。土地。地域。ここでは出来事のあった場所。
- やがて…そのまま。すぐに。(現代語の『そのうち』とは違うので注意)
- 定まる…(事実として)決まってしまう。定着する。
- まことし(まことしく)…本当らしい。もっともらしい。
- あひしらふ…応対する。相手をする。取り扱う。
- ひとへに…ひたすら。いちずに。もっぱら。
- あざける…あざ笑う。ばかにする。
5. 文法・読解のポイント
- 「あいなきにや」の「に」と「や」…「に」は断定の助動詞「なり」の連用形、「や」は疑問の係助詞。下に「あらむ」などが省略された形で、「(真実は)つまらないからであろうか」と理由を疑問の形で推し量る。係助詞「や」が文末省略を導く点に注意。
- 完了の助動詞「ぬ」の見分け…「隔たりぬれば」「書きとどめぬれば」「定まりぬ」の「ぬ」はすべて完了の助動詞「ぬ」。連用形に接続している点が手がかり。打消の助動詞「ず」の連体形「ぬ」(未然形接続)と混同しないこと。
- 「ぬれば」の確定条件…完了の助動詞「ぬ」の已然形「ぬれ」+接続助詞「ば」で、已然形+「ば」の確定条件。「〜してしまうと」「〜してしまうので」と訳す。
- 願望の助動詞「たし」…「言ひたきままに」の「たき」は願望の助動詞「たし」の連体形。「言いたい(と思う)ままに」の意。「言ひたきまま」で言いたい放題のニュアンスになる。
- 「言ひなす/語りなす」の「なす」…動詞の連用形に付く補助動詞的な「なす」で、「ことさらに〜する」「(事実と違うように)〜してみせる」の意。事実を誇張・脚色するニュアンスを与える、この段の主題を支える語。
- 結びの「べからず」…当然・適当の助動詞「べし」の未然形「べから」+打消の助動詞「ず」で、「〜してはいけない」「〜すべきでない」という禁止・不適当の意。兼好の主張(あざ笑うべきでない)を示す結論の言い方。
6. 主題・あらすじ・背景
あらすじ:兼好法師は、世間で語り伝えられる話の多くがうそ(虚言)であると指摘する。人はもともと事実以上におおげさに物を言うものだが、そこに年月の経過と場所の隔たりが加わると、語る人は言いたい放題に話を作り上げ、それが文章に書き留められると「事実」として定着してしまう。さらに段の本文では、その道に詳しくない者がおおげさに語っても信用されないこと、つじつまを合わせた巧妙なうそはかえって恐ろしいこと、自分の名誉のためにつくうそや、皆が口をそろえて言ううそなど、虚言のさまざまな型が挙げられる。結論として兼好は、うそが多いのは世の常と心得たうえで、神仏の不思議や聖人の伝記を頭から否定するのもよくないとし、「大体は本当らしく受け止めつつ、ひたすら信じこまず、また疑ったりあざ笑ったりしない」という中庸の態度を勧める。
主題:世間に流布する「うわさ・言い伝え」の多くがうそであることを、その生まれ方・広がり方・定着の仕組みとともに見抜き、情報に対して『信じすぎず・疑いすぎず』という中庸でバランスの取れた態度をとるべきだという、情報リテラシーにも通じる人生の知恵。
背景:『徒然草』は鎌倉時代後期(14世紀前半、1330年頃)に成立した随筆で、作者は兼好法師(吉田兼好・卜部兼好とも)。出家して隠者として暮らした兼好が、人生・自然・社会・人間心理についての観察や考えを、二百四十余段にわたって自由な形式でつづったもので、『枕草子』『方丈記』と並ぶ日本三大随筆の一つとされる。この第七十三段は、噂や伝聞・うわさ話に対する人間の心理を冷静に分析した「随想的章段」で、文字や記録が情報を固定化する力にまで言及している点が、現代のメディアや情報社会の問題ともつながると評価されている。
確認クイズ(3問)
「世に語り伝ふること、まことはあいなきにや、多くは皆虚言なり」とあるが、兼好は世間で語り伝えられる話の多くをどのようなものだと言っているか。
(真実はおもしろくないからか)多くはみな『うそ(虚言)』である、と言っている。
兼好によれば、うそが『やがてまた定まりぬ(事実として定着する)』のはなぜか。本文に即して答えよ。
人がもともと実際以上におおげさに言ううえに、年月が過ぎて場所も遠く離れると言いたい放題に話を作り上げて語り、それが文章にも書き留められてしまうから。
この段の最後で兼好が勧めている、世の中のうそや言い伝えに対する態度はどのようなものか。
大体は本当らしく受け止めつつ、ひたすら信じこむこともせず、また、むやみに疑ったりあざ笑ったりもしない、という中庸(バランス)の態度。
7. つまずきやすいポイント・入試での問われ方
- 『やがて』を現代語の『そのうち・まもなく』と訳してしまう誤り。古文では『そのまま・すぐに』の意味で、ここは『そのまま(事実として)定着する』となる。
- 「ぬ」の識別問題。『隔たりぬれば』『定まりぬ』の『ぬ』が完了か打消かを問われる。連用形接続=完了、未然形接続=打消(ずの連体形)で見分ける。
- 「あいなきにや」の『に』の文法的説明(断定の助動詞『なり』の連用形)と、係助詞『や』による文末省略(あらむの省略)が記述問題で問われやすい。
- 「あるにも過ぎて」「言ひなす」など、誇張・脚色を表すキーワードの意味と、それが主題(うそが生まれる仕組み)にどう関わるかを説明させる問題。
- 結びの『ひとへに信ぜず、また、疑ひあざけるべからず』に表れた兼好の主張=『信じすぎず疑いすぎない中庸の態度』を要約する読解・記述問題。
8. まとめ
・世間の言い伝え・うわさの多くは『虚言(うそ)』である、というのがこの段の出発点。
・うそが定着する仕組み=『人の誇張+年月の経過+場所の隔たり+文字への記録』。情報が固定化されていく過程を鋭く分析している。
・文法の急所は、完了の助動詞『ぬ』の識別、『に+や』(断定+疑問の係助詞・文末省略)、願望『たし』、禁止の『べからず』。
・結論は『信じすぎず・疑いすぎず』の中庸の構え。現代の情報リテラシー(デマやSNSとの付き合い方)にも通じる、兼好の大人の知恵。
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