はじめに ― 「会いたい」という気持ちのいちばん深いかたち
年をとった母が、なかなか会いに来られない我が子を思って、一首の歌を送ります。その歌には「いつ来るか分からない死別」への不安がそっとにじんでいます。それを受け取った子は、泣きながら歌を返しました。
『伊勢物語』第八十四段、通称「さらぬ別れ」。短いお話ですが、親が子を思う心、子が親を思う心が、たった二首の和歌のなかにぎゅっと込められています。「さらぬ別れ」とは何のことか――それが分かると、この段はぐっと胸に迫ってきます。
先生と生徒の会話で予習
生徒:先生、「さらぬ別れ」って、どんな別れのことですか? なんだか難しそうな言葉です。
先生:いい着眼点だね。「さらぬ」は「避けられない・どうしようもない」という意味なんだ。だから「さらぬ別れ」で「避けることのできない別れ」=死別を指すんだよ。
生徒:えっ、死んでしまうお別れのことなんですね…。それで母が「会いたい」って言っているんですか。
先生:そう。年老いた母が「いつお別れの日が来るか分からないから、ますますあなたに会いたい」と歌に詠んだ。それを読んだ子が、泣きながら「そんな別れがこの世になければいいのに」と返すんだ。親子のまっすぐな情愛が見どころだよ。
原文
むかし、男ありけり。身はいやしながら、母なむ宮なりける。その母、長岡といふ所に住み給ひけり。子は京に宮仕へしければ、まうづとしけれど、しばしばえまうでず。一つ子にさへありければ、いとかなしうし給ひけり。さるに、師走ばかりに、とみのこととて御文あり。おどろきて見れば、歌あり。
老いぬれば さらぬ別れの ありといへば いよいよ見まく ほしき君かな
かの子、いたううち泣きてよめる。
世の中に さらぬ別れの なくもがな 千代もと祈る 人の子のため
現代語訳
昔、一人の男がいた。身分は高くなかったけれど、その母は皇女(内親王)でいらっしゃった。その母は、長岡という所に住んでいらっしゃった。子は都で宮仕えをしていたので、(母のもとへ)参上しようとはするのだけれど、たびたびは参上できない。(しかも母にとっては)たった一人の子であったので、(母は子を)たいそういとおしくお思いになっていた。
そんなとき、十二月ごろに、急用だといって(母から)お手紙が届いた。驚いて見ると、歌が書いてあった。
「年をとってしまうと、避けられない別れ(=死別)があるというので、いよいよ(その前に)あなたに会いたいと思うことよ」
あの子(男)は、ひどく泣いて、こう詠んだ。
「この世の中に、避けられない別れ(=死別)などなければよいのに。親が千年も生きてほしいと祈っている子のために」
重要語句
| 語句 | 意味・はたらき |
|---|---|
| いやし(賤し) | 身分が低い。「身はいやしながら」で「身分は低いけれど」。 |
| 宮(みや) | ここでは皇女(内親王)のこと。母が高貴な身分であることを示す。 |
| えまうでず | 「え〜ず」で「〜できない」の意。「参上できない」。呼応の副詞「え」に注意。 |
| かなしうす | 「かなしくす」のウ音便。いとおしむ・かわいがる。「悲しい」ではない点に注意。 |
| 師走(しはす) | 陰暦十二月。 |
| とみのこと | 急ぎの用事。「とみ(頓)」=急な。 |
| さらぬ別れ | 避けられない別れ=死別。「さらぬ」は「避らぬ(避けられない)」。 |
| 見まくほし | 会いたい・見たい。「見+まく(推量の意の語)+ほし」で願望を表す。 |
| なくもがな | 「なければなあ(ないでほしい)」。「もがな」は願望の終助詞。 |
| 千代(ちよ) | 千年。長い年月、長寿のたとえ。 |
読解のポイント
① キーワードは「さらぬ別れ」=死別
この段の心臓部です。「さらぬ」は「避らぬ」、つまり「避けることのできない」という意味。人が必ず迎える別れ=死別を、やわらかく言い表した表現です。母の歌でも子の歌でも同じ言葉が使われ、二首をしっかり結びつけています。「さらぬ別れ=死別」は、テストでもっとも問われやすいポイントなので必ず押さえましょう。
② 母と子で「会いたい」と「祈る」が対になっている
母は「いよいよ見まくほしき君かな(ますますあなたに会いたい)」と、別れの前に会いたいと願います。一方、子は「千代もと祈る(千年も生きてほしいと祈る)」と、別れそのものが来ないことを願います。母は「会いたい」、子は「(別れが)なくなってほしい」。同じ「さらぬ別れ」を前にして、向きの違う二つの願いが響き合い、親子の情愛を立体的に描き出しています。
③ 「人の子」とは誰のことか
子の歌の結び「人の子のため」の「人の子」とは、ほかでもない詠み手である男(子)自身を指します。「親を持つ子=自分のために」という意味で、自分を一歩引いて表現することで、かえって母を思う気持ちのつよさが伝わってきます。
作品紹介
『伊勢物語』は、平安時代前期に成立したとされる歌物語です。歌物語とは、和歌を中心にして、その和歌が詠まれた事情(背景の物語)を短く添えた形式の作品をいいます。多くの段が「むかし、男(ありけり)」という決まった書き出しで始まるのが特徴です。
主人公の「男」は、平安初期の歌人在原業平(ありわらのなりひら、825〜880年)を思わせる人物として描かれることが多く、この第八十四段の母は、業平の母とされる伊都内親王(いとないしんのう)に重ねて読まれてきました。作者は未詳で、長い時間をかけて少しずつ書き継がれていったと考えられています。なお、子の返歌「世の中に〜」は『古今和歌集』にも在原業平の歌として収められています。
定期テストで問われやすい点
- 「さらぬ別れ」の意味=避けられない別れ=死別。「さらぬ」の語源(避らぬ)まで答えられるように。
- 「え〜ず」の意味=「〜できない(不可能)」。「しばしばえまうでず」の現代語訳がねらわれます。
- 「かなしうし給ひけり」の「かなし」=「いとおしい・かわいい」。「悲しい」と訳すと誤り。
- 「なくもがな」「見まくほし」などの願望表現の訳。
- 「人の子」が指す人物=詠み手の男(子)自身。
- 母と子、それぞれの歌に込められた気持ちの違いを説明させる記述問題。
- 『伊勢物語』のジャンル(歌物語)と、主人公のモデル(在原業平)。
まとめ
『さらぬ別れ』は、「さらぬ別れ=死別」という一語を二首の歌で受け渡しながら、老いた母と子の深い情愛を描いた段です。母は「会えるうちに会いたい」と願い、子は「そんな別れがこの世になければいい」と泣きながら返します。
言葉自体はやさしいのに、読み終えると胸に長く残る――それは、ここに描かれているのが時代を超えて変わらない親子の情だからでしょう。「さらぬ別れ」の意味と、母子の願いの違い。この二つを押さえれば、この段はもう自分のものです。
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