1. はじめに
月の明るい夜、笛の名手・博雅の三位(みなもとのひろまさ)が朱雀門(すざくもん)の前で笛を吹いていると、見知らぬ男が現れ、この世のものとは思えない美しい音色で笛を吹いていました。二人は言葉も交わさないまま、毎晩のように出会って笛を吹き、ついには笛を取り替えてしまいます。実はその男は「鬼」で、笛は「葉二(はふたつ)」と名づけられた天下第一の名笛だった、という不思議な説話です。
音楽(笛)の腕前と、人間と鬼との静かな交流を描いた、平安の雅やかさと怪異が同居する話です。会話がほとんどなく、笛の音色だけで心が通じ合う場面の美しさが読みどころ。鬼が出てくるのに恐ろしさより優雅さが感じられるところに、芸の道を尊んだ当時の人々の心が表れています。
2. 原文
【前半(博雅と謎の男の出会い・笛の交換)】
博雅の三位、月の明かかりける夜、直衣にて、朱雀門の前に遊びて、夜もすがら笛を吹かれけるに、同じさまに、直衣着たる男の、笛吹きければ、誰ならむと思ふほどに、その笛の音、この世にたぐひなくめでたく聞こえければ、あやしくて、近寄りて見ければ、いまだ見ぬ人なりけり。我もものをも言はず、かれも言ふことなし。かくのごとく、月の夜ごとに行きあひて吹くこと、夜ごろになりぬ。かの人の笛の音、ことにめでたかりければ、こころみに、かれを取りかへて吹きければ、世になきほどの笛なり。そののち、なほなほ月ごろになれば、行きあひて吹きけれど、「もとの笛を返し取らむ。」とも言はざりければ、長くかへてやみにけり。
【後半(博雅の死後・浄蔵が吹いて鬼の笛と判明)】
三位失せて後、帝、この笛を召して、時の笛吹きどもに吹かせらるれど、その音を吹きあらはす人なかりけり。そののち、浄蔵といふ、めでたき笛吹きありけり。召して吹かせ給ふに、かの博雅に劣らざりければ、帝、感じ給ひて、「この笛の主、朱雀門の辺にて得たりけるとこそ聞け。浄蔵、この所に行きて吹け。」と仰せられければ、月の夜、仰せのごとくかしこに行きて、この笛を吹きけるに、かの門の楼の上に、高く大きなる声にて、「なほ逸物かな。」と褒めけるを、人々ありて、帝に奏しければ、はじめて鬼の笛と知ろしめしけり。「葉二」と名づけて、天下第一の笛なり。
3. 現代語訳(やさしい言葉で)
【前半(博雅と謎の男の出会い・笛の交換)】
博雅の三位が、月が明るかった夜、直衣(普段着の正装)姿で、朱雀門の前で管弦を楽しんで、一晩中笛をお吹きになっていたところ、同じように直衣を着た男が笛を吹いていたので、「誰だろう」と思っているうちに、その笛の音が、この世に比べるものがないほど素晴らしく聞こえたので、不思議に思って近寄って見たところ、今まで見たことのない人であった。自分も何も言わず、その男も何も言わない。このように、月の夜ごとに行き会って(一緒に)笛を吹くことが、幾晩も続いた。その人の笛の音が、とりわけ素晴らしかったので、試しに、その笛を(自分の笛と)取り替えて吹いてみると、(この世に)またとないほどのすばらしい笛である。その後、やはり同じように何か月も、行き会って(一緒に)吹いたけれど、(男は)「もとの笛を返してもらおう」とも言わなかったので、(笛は)ずっと取り替えたままになってしまった。
【後半(博雅の死後・浄蔵が吹いて鬼の笛と判明)】
三位(博雅)が亡くなった後、帝が、この笛をお取り寄せになって、その当時の笛吹きたちに吹かせなさったけれど、その(博雅が出したような)音を出せる人はいなかった。その後、浄蔵という、すばらしい笛吹きがいた。(帝が)召して吹かせなさると、あの博雅に劣らなかったので、帝が感心なさって、「この笛の持ち主(博雅)は、朱雀門の辺りで(この笛を)手に入れたと聞いている。浄蔵よ、その場所に行って吹いてみよ」とおっしゃったので、月の夜、ご命令のとおりにその場所に行って、この笛を吹いたところ、あの門の楼(二階)の上で、高く大きな声で「やはり優れものだなあ」と褒めたのを、人々がいて帝に申し上げたので、(帝は)初めて鬼の笛だとお知りになった。(その笛を)「葉二(はふたつ)」と名づけて、天下第一の笛である。
4. 重要語句
- 直衣(なほし)…貴族の平常時の上着。正式な束帯ではない、くつろいだ装い。
- 遊ぶ…管弦(音楽)を楽しむ。詩歌・音楽の風流を楽しむこと。
- 夜もすがら…一晩中。夜通し。(対義語=「ひねもす(一日中)」)
- たぐひなし…比べるものがない。またとない。最上だの意。
- めでたし…すばらしい。立派だ。賞賛したくなるほど見事だ。
- あやし…ここでは「不思議だ・変だ」。状況がいぶかしく思われること。
- こころみに…試しに。ためしとして。
- 夜ごろ・月ごろ…幾晩も・幾か月もの間。「〜ごろ」は「その間ずっと」の意の時間表現。
- 失す…亡くなる。死ぬ(の婉曲表現)。
- 逸物(いちもつ)…とびぬけて優れたもの。ここでは名笛を指す。鬼が笛を褒めた言葉。(「いつもつ」と読む注釈書もある)
- 奏す…(天皇に)申し上げる。絶対敬語で、相手が帝のときに使う謙譲語。
- 葉二(はふたつ)…笛につけられた名。天下第一とされた名笛の固有名。
5. 文法・読解のポイント
- 尊敬語「吹かれけるに」「召して」「仰せられければ」「知ろしめしけり」の敬意の方向…「吹かれ」の「れ」は尊敬の助動詞「る」の連用形で、作者から博雅への敬意。後半の「召す」「仰せらる」「知ろしめす」「感じ給ふ」は、すべて作者から帝への敬意を表す尊敬語。誰から誰への敬意かを問う設問が頻出。
- 謙譲語「奏す」の特殊性(絶対敬語)…「帝に奏しければ」の「奏す」は、申し上げる相手が天皇(帝)のときだけ使う謙譲語。皇后・皇太子には「啓す」を使う。動作の受け手が帝だと特定できる重要語。
- 過去の助動詞「けり」と完了「ぬ」「けり」の伝聞的な語り口…「吹かれけるに」「なりけり」「やみにけり」など、文末に「けり」が多用される。説話特有の「〜たということだ」という伝え聞きの語り口を作る。「夜ごろになりぬ」の「ぬ」は完了の助動詞。
- 推量・意志「誰ならむ」「返し取らむ」の「む」…「誰ならむ」の「む」は推量(〜だろう)、「もとの笛を返し取らむ」の「む」は意志(〜しよう)。同じ「む」でも文脈で意味が変わる識別ポイント。
- 副詞「なほ」の意味(後半の鬼の言葉)…「なほ逸物かな」の「なほ」は「やはり・依然として」の意。「(人が替わっても)やはりこの笛はすばらしい」という鬼の感嘆。詠嘆の終助詞「かな」とセットで押さえる。
- 係り結び・指示語の指す内容…「得たりけるとこそ聞け」は係助詞「こそ」→已然形「聞け」の係り結び。また「その音」「この所」「かの門」などの指示語が何を指すか(その音=博雅が出した音色/この所=朱雀門)を問う設問が多い。
6. 主題・あらすじ・背景
あらすじ:月の明るい夜、笛の名手・博雅の三位が朱雀門の前で一晩中笛を吹いていると、同じく直衣姿の見知らぬ男が、この世にまたとないほど美しい音色で笛を吹いていた。二人は一言も交わさないまま、月夜のたびに出会って共に笛を吹くことが何晩も続いた。男の笛があまりに見事なので、博雅が試しに笛を取り替えて吹くと、それは世にない名笛だった。男はもとの笛を返せとも言わず、笛は取り替えたままになった。博雅の死後、帝がこの笛を当代の笛吹きたちに吹かせたが、博雅のような音を出せる者はいなかった。やがて浄蔵という名手が現れ、帝の命で朱雀門に行ってこの笛を吹くと、門の楼の上から「やはり優れものだなあ」と褒める大きな声がした。これを聞いた帝は、初めてこれが鬼の笛だと知った。その笛は「葉二」と名づけられ、天下第一の名笛となった。
主題:芸(笛)の道をきわめた者だけが感じ取れる音楽の真価と、人と鬼との身分・種族を超えた静かな心の交流。言葉ではなく音色によって通じ合う「芸の力」のすばらしさと、その名器をめぐる神秘を描く。すぐれた芸は人の世だけでなく、鬼(異界の存在)さえも引き寄せ、認めさせるものだという、芸能を尊んだ平安の価値観が主題。
背景:『十訓抄(じっきんしょう)』は、鎌倉時代中期の建長4年(1252年)に成立した教訓説話集。編者は未詳だが、六波羅二臈左衛門入道(湯浅宗業か)とする説などがある。年少者の教育のため、人としての心得を十か条の教訓(十訓)にまとめ、その教えに合う古今・和漢の説話約280話を集めて分かりやすく説く。主人公の博雅の三位は、実在した平安中期の貴族・源博雅(918〜980)で、醍醐天皇の孫にあたり、笛・琵琶などの管弦に秀でた当代随一の音楽家として数々の逸話を残す。後半に登場する浄蔵(891〜964)も実在の天台宗の僧で、三善清行の子。加持祈祷の名僧として知られ、笛の名手でもあったと伝えられる。朱雀門は平安京の正門で、鬼や物の怪が出る場所として説話によく登場する。
確認クイズ(3問)
博雅の三位が朱雀門で出会った男は、実は何者だったのか。また、その正体はどのようにして明らかになったか。
正体は「鬼」。博雅の死後、浄蔵が朱雀門でこの笛を吹いたところ、門の楼の上から「なほ逸物かな(やはり優れものだなあ)」と褒める大きな声がし、それを帝に申し上げたことで、初めて鬼の笛だと判明した。
「その笛の音、この世にたぐひなくめでたく聞こえければ」とは、誰のどんな様子を述べたものか。現代語訳しなさい。
(朱雀門で出会った)謎の男が吹く笛の音が、この世に比べるものがないほどすばらしく聞こえた、ということ。その美しさに博雅が不思議に思い、近寄ったきっかけになっている。
この笛につけられた名前と、最終的にどのような評価を受けたかを答えなさい。
名前は「葉二(はふたつ)」。天下第一の笛(=この世で最もすばらしい笛)と評された。
7. つまずきやすいポイント・入試での問われ方
- 敬意の方向を問う問題が頻出。前半の「吹かれ」は博雅への敬意、後半の「召す・仰せらる・知ろしめす」は帝への敬意と、対象が途中で変わる点に注意。
- 「奏す」は相手が帝のときだけ使う謙譲語(絶対敬語)。「啓す(皇后・皇太子へ)」との区別がよく問われる。
- 指示語(「その音」「この所」「かの門」)が何を指すかを問う設問が多い。「その音」=博雅が出したような笛の音色、「この所/かの門」=朱雀門。
- 「めでたし」を現代語の「めでたい(祝うべき)」と取り違えやすい。古語では「すばらしい・立派だ」の意。
- 誰が笛を取り替えたまま返さなかったのか、人物の動作主が紛らわしい。笛を返せと言わなかったのは謎の男(鬼)の側である点を整理する。
8. まとめ
・月夜の朱雀門で、笛の名手・博雅が鬼(とは知らずに)と笛を吹き合い、名笛「葉二」を手に入れる説話。
・言葉を交わさず、笛の音色だけで心を通わせる場面が最大の読みどころ。芸の力が異界の存在さえ動かす。
・敬意の方向(博雅へ/帝へ)と、絶対敬語「奏す」、指示語の指す内容が定期テスト・入試の頻出ポイント。
・出典は鎌倉中期の教訓説話集『十訓抄』(1252年成立)。博雅・浄蔵ともに実在の人物で、史実と怪異が結びついた話。
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