1. はじめに
『土佐日記』は、紀貫之(きのつらゆき)が土佐の国司の任期を終え、京(みやこ)へ帰る五十五日間の船旅を書いた日記です。作者が女性のふりをして、当時は男性が漢文で書くのがふつうだった日記を、あえてかな文字(女手)でつづっているのが大きな特徴です。この『阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)』の段は、悪天候で船が出せず足止めされた夜、海から美しい月がのぼるのを見て、はるか昔に唐(中国)へ渡った阿倍仲麻呂の故事を思い出す場面です。
見どころは、月をきっかけにして「ことばはちがっても、月を見て心を動かされる気持ちは同じだ」という、人の心の普遍性(みんなに共通する思い)が語られるところです。仲麻呂が望郷の思いをこめてよんだ和歌「青海原ふりさけ見れば…」と、その思いに重ねて貫之たちがよんだ和歌の二首が並び、月でつながる人の心がしみじみと描かれます。
2. 原文
【本文】
二十日の夜の月出でにけり。山の端もなくて、海の中よりぞ出でくる。かうやうなるを見てや、昔、阿倍仲麻呂といひける人は、唐土(もろこし)に渡りて、帰り来ける時に、船に乗るべき所にて、かの国人、馬のはなむけし、別れ惜しみて、かしこの漢詩作りなどしける。飽かずやありけむ、二十日の夜の月出づるまでぞありける。その月は、海よりぞ出でける。これを見てぞ、仲麻呂の主、「我が国にかかる歌をなむ、神代より神もよん給び、今は上中下の人も、かやうに別れ惜しみ、喜びもあり、悲しびもある時には詠む」とて、よめりける歌、
【和歌(仲麻呂)】
青海原(あをうなばら)ふりさけ見れば春日(かすが)なる三笠の山にいでし月かも
【本文(つづき)】
とぞよめりける。かの国人、聞き知るまじく思ほえたれども、言の心を、男文字に様を書き出だして、ここの言伝へたる人に言ひ知らせければ、心をや聞き得たりけむ、いと思ひの外になむ愛でける。唐土とこの国とは、言異なるものなれど、月の影は同じことなるべければ、人の心も同じことにやあらむ。さて、今、そのかみを思ひやりて、ある人のよめる歌、
【和歌(貫之=ある人)】
都にて山の端に見し月なれど波より出でて波にこそ入れ
3. 現代語訳(やさしい言葉で)
【本文】
二十日の夜の月が出た。山の端(は)もなくて、海の中からのぼってくる。このような(海から出る)月を見たからであろうか、昔、阿倍仲麻呂という人は、唐(中国)に渡って、帰国するときに、船に乗ろうとする所で、あちらの国の人が送別の宴を開き、別れを惜しんで、あちらの国の漢詩を作ったりなどした。(その別れが)名残(なごり)惜しかったのであろうか、二十日の夜の月が出るまで(その宴は続いて)あった。その月は、海からのぼったのだった。これを見て、仲麻呂どのは、「我が国では、このような歌を、神代(かみよ)から神もおよみになり、今では身分の高い人・中くらいの人・低い人も、このように別れを惜しみ、うれしいことがあり、悲しいことがあるときにはよむのだ」と言って、よんだ歌は、
【和歌(仲麻呂)】
青々とした大海原をはるかに仰ぎ見ると、(月が出ている。あの月は)故郷の春日にある三笠の山に出ていたのと同じ月であることよ。
【本文(つづき)】
とよんだのだった。あちらの国の人は、(日本語の歌など)聞いても理解できまいと思われたけれど、歌の意味を漢字で様子を書き出して、この国の言葉を(中国語に)伝えられる人に説明させたところ、歌の心を理解したのだろうか、たいそう意外なほどに(歌を)感心してほめたのだった。唐とこの国とは、言葉は異なるものだけれど、月の光は同じことであるはずだから、人の心も同じことなのだろうか。さて、今、その昔(の仲麻呂の故事)を思いやって、ある人がよんだ歌は、
【和歌(貫之=ある人)】
都では山の端に(沈むのを)見た月だけれど、(ここでは)波の中から出て、波の中にこそ沈むことだ。
4. 重要語句
- 山の端(やまのは)…山と空との境目。ふつう月は山の端から出るが、海上ではそれがない、という対比に使われる。
- かうやうなる…「このような」。海から月がのぼるさまを指す。
- 唐土(もろこし)…中国のこと。当時の日本から見た「あちらの大国」。
- 馬のはなむけ…旅立つ人を送る送別の宴・餞別(せんべつ)。もとは旅の無事を祈り馬の鼻を行く方向へ向けたことから。
- 飽(あ)かず…満足しない、名残惜しい。「飽く(満足する)」の打消。
- ふりさけ見る…はるか遠くを仰ぎ見る。「さけ」は遠く離れる意。
- 影(かげ)…光。「月の影」は月の光のこと。現代語の「かげ(暗い部分)」とは逆なので注意。
- 聞き知るまじく…聞いても理解できないだろう。「まじ」は打消推量。
- 男文字(をとこもじ)…漢字のこと。対して、かな文字を「女手(をんなで)」という。
- 愛(め)づ…ほめる、感心する、すばらしいと思う。
- そのかみ…その昔、当時。ここでは仲麻呂の故事のあった昔を指す。
- 波にこそ入れ…波の中にこそ沈むことよ。「こそ+已然形」で強調の係り結び。
5. 文法・読解のポイント
- 助動詞「けり」(過去・詠嘆)…「月出でにけり」「漢詩作りなどしける」など、本文は基本「けり」で過去を語る。和歌の「いでし月かも」の「かも」は詠嘆で「〜だなあ」と訳す。
- 係り結び「ぞ〜(連体形)」…「海の中よりぞ出でくる」「その月は海よりぞ出でける」「とぞよめりける」など、係助詞「ぞ」を受けて文末が連体形になり、強調を表す。月が海から出る点を強める働き。
- 係り結び「こそ〜(已然形)」…貫之の和歌「波にこそ入れ」は「こそ」を受けて已然形「入れ」で結ぶ。京では山に沈む月が、ここでは波に沈む、という驚き・感慨を強調する。
- 助動詞「べし」「らむ」「けむ」の推量…「月の影は同じことなるべければ」=当然・推定、「人の心も同じことにやあらむ」=推量、「飽かずやありけむ」「心をや聞き得たりけむ」=過去推量。係助詞「や」と結びついて「〜だろうか」と疑問・推量になる。
- 尊敬語「給ぶ(たぶ)」…「神もよん給び」の「給ぶ」は尊敬の補助動詞で「およみになる」。和歌をよむ主体である神を高めている。仲麻呂のせりふの中の敬意の方向に注意。
- 和歌の掛詞・対句的表現…仲麻呂の歌は「青海原」と「三笠の山」、目の前の海上の月と故郷の山の月を重ね、望郷の思いを表す。貫之の歌は「波より出でて波にこそ入れ」と『出づ/入る』を対にして、海上で見る月の珍しさと旅の心細さを描く。
6. 主題・あらすじ・背景
あらすじ:悪天候で船が出せず、人々が嘆く足止めの夜、海の中から月がのぼった。それを見た作者は、昔、唐(中国)に渡って帰国しようとした阿倍仲麻呂の故事を思い出す。仲麻呂は、唐の人々が開いてくれた送別の宴で海から出る月を見て、「青海原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」と、故郷の春日・三笠山の月を思う望郷の歌をよんだ。言葉が通じないはずの唐の人々も、漢字で書いて意味を伝えてもらうと、その歌の心を理解して深く感心したという。作者は「国はちがい言葉もちがうが、月の光は同じなのだから、人の心も同じなのだろう」と思いをめぐらせ、その昔をしのんで「都にて山の端に見し月なれど波より出でて波にこそ入れ」という歌をよむ。
主題:月を仲立ちとした「望郷の念」と「人の心の普遍性」。言葉や国がちがっても、月を見て故郷を思い、別れを惜しむ心は同じである、という人情の共通性が中心テーマ。海から出て海に沈む珍しい月の姿に、旅の心細さと、昔の仲麻呂への共感が重ねられている。
背景:『土佐日記』は紀貫之が承平五年(九三五年)ごろに書いたとされる、かな文字による最初期の日記文学。土佐から京への帰路を、女性が書いたという体裁でつづる。阿倍仲麻呂は奈良時代に遣唐使として唐に渡った実在の人物で、優秀さを認められて唐の朝廷で高官となったが、帰国の船が難破するなどして結局日本に帰れず、唐で生涯を終えた。この望郷の歌は『古今和歌集』にも「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」の形で収められ、百人一首にもとられている有名な歌である(『土佐日記』では初句が「青海原」となっている点に注意)。貫之は、この仲麻呂の故事を、自分たちの船旅の心細さや望郷の思いに重ねて記している。
確認クイズ(3問)
阿倍仲麻呂が和歌「青海原ふりさけ見れば…」をよんだのは、どんな場面ですか。
唐(中国)からの帰国の途につくため、唐の人々が開いてくれた送別の宴で、海から月がのぼるのを見たときによんだ。故郷(春日・三笠山)を思う望郷の歌。
「唐土とこの国とは、言異なるものなれど、月の影は同じことなるべければ、人の心も同じことにやあらむ」とは、どういう考えを述べていますか。
中国と日本は言葉はちがうけれど、月の光は同じなのだから、(月を見て心を動かす)人の心も同じなのだろう、という人情の普遍性を述べている。
「都にて山の端に見し月なれど波より出でて波にこそ入れ」の歌で、「こそ〜入れ」はどんな文法のきまりですか。また何を強調していますか。
係助詞「こそ」を受けて文末が已然形「入れ」で結ばれる係り結び。京では山に沈む月が、海上では波に沈むという珍しさ・感慨を強調している。
7. つまずきやすいポイント・入試での問われ方
- 「影」を現代語の『かげ(暗い部分)』と訳してしまう誤り。古文の「月の影」は『月の光』の意味なので要注意。
- 和歌の初句が、土佐日記では「青海原」、古今集・百人一首では「天の原」になっている違いを問われることがある。出典による違いを押さえておく。
- 係り結び(ぞ〜連体形/こそ〜已然形)を見落とし、文末の活用形や強調の働きを答えられないこと。本文中に「ぞ」「こそ」が複数あるので印をつけて確認する。
- 「飽かずやありけむ」「心をや聞き得たりけむ」の『や+けむ』を、ただの過去にしてしまう誤り。疑問・過去推量で『〜だったのだろうか』と訳す。
- 主題を問う記述で「望郷」だけを書いて、『言葉がちがっても人の心は同じ(人情の普遍性)』という点を落としやすい。二つをセットで答える。
8. まとめ
・悪天候の足止めの夜、海からのぼる月を見て、唐に渡った阿倍仲麻呂の故事を思い出す場面。
・仲麻呂の歌「青海原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」は、故郷を思う望郷の名歌(古今集・百人一首では初句『天の原』)。
・テーマは『月を仲立ちにした人の心の普遍性』。言葉や国がちがっても、月を見て動く心は同じだ、という思いが中心。
・文法では「けり」「べし・らむ・けむ」などの助動詞、「ぞ〜連体形」「こそ〜已然形」の係り結び、尊敬語「給ぶ」が頻出ポイント。
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